退屈日記

とりあえず日々のつれづれを。

「平等に愚かであること」について

2011-06-25 04:24:45 | Weblog
晴れのちくもり。深夜に「夕立ち」も。

途中まで読んで以前読んだ本だと気付くお粗末。
内容も採り上げるほどのことはなくスルーしておく。

深夜懲りずに朝生を観る。

三宅久之(1930=昭和5年生まれ)に感じたことを
同様に田原総一郎(1934=昭和9年生まれ)にも感じる。

自分がそれなりのきちんとした仕事をしてきた自負があるのはかまわないとして
彼らは「ジャーナリスト批判」に対してまるで自分が批判されているかのようにふるまう。

その意識の有り様を「世代」に還元していいかどうかは不明だけれど
なぜそういう反応になるのかについてはあらためて考えていただきたいもの。

東京新聞の長谷川幸洋はジャーナリストとして「健全」。
ただしその彼にして原発問題に絡んで今頃京大の小出裕章助教の名前を出す始末なのはいただけない。

「マル激情報」がすべて「正しい」わけではないとして
「参考にすべき情報源」は確保しておいてもらわないと。

政治家、とりわけ民主党の政治家たちについて思うのは「シロウトである」ということ。

菅総理が「権力維持のためなら何でもするマキャベリスト」だという判断をしておきながら
「状況証拠」から「辞める事になるだろう」というのは甘すぎる。

そこにあるのは「自分の常識」を「他人」にまで適用することの愚か。
菅という人が「ほぼ北朝鮮」と同じだという「事実」をなぜ受け入れられないのか。

「まともな官僚」古賀茂明はとうとう「肩叩き」されたらしい。
彼を出演させたことが朝生のせめてもの「良心」だと受け取っておくことにしよう。

東京都副知事・猪瀬直樹は電力の「全量買い取り」に疑問を呈している時点で「アウト」。
彼には飯田哲也と議論してもらいたい(負ける予想はつくけれど)。

結局「まともな判断」をしているのは小沢遼子。
上杉隆が「どうでもいい議論」に「あきれ顔」になるのも十分理解できる。

わが国の至る所で「ごっこ」のみがはびこっている。
魯迅に倣って「水に落ちた犬=能力も無いのに地位だけある存在」は打つべし。

もちろんそれはあくまで「言論」でのこと。
「自分の利益を優先すること」や「他人のせいにすること」の類いはどうでもいいしウンザリ。
コメント
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