退屈日記

とりあえず日々のつれづれを。

「学ぶことがヘタな人」について

2011-06-17 02:20:34 | Weblog
雨。深夜になって止む。

「学ぶことがヘタな人」が増えてきているようなのでそのことについて少々。

何事かを学ぶ上で重要なのは「まずはそのことを無条件に受け入れること」であり
「理解しようと努力すること」であるのが「定石」。

にもかかわらず彼ら彼女らは何故かそう出来ずに
「自分の抱いた疑問」や「現在の自分」にこだわり続ける。

たいていの場合それらの「疑問」や「現在の自分」はかなり「的外れ」で
彼ら彼女らが「身につけたいもの」のためにはむしろ「害」になることが多い。

たとえば教える人が「基礎的なこと」として「ほぼ完璧」にしてもらいたいことを
「いつまでたっても」出来る気配がなかったりする。

もちろんそれが本当に「不可能」ならばそもそも「不向き」なので別な道を行けばいい。
むしろその方が彼ら彼女らの「ためになる」はずで。

興味深いのは彼ら彼女らはどうやら「本気」だということ。
ただし実際にやっていることを見るととてもそうとは思えないという「落差」が甚だしいのだ。

この「希望」と「行動」の乖離はどこから生じるのだろう。
「当人が自分のことを客観的に見られないからだ」という「単純な結論」があるのは承知の上で。

ここで子どもに「愛している」と言いながらその一方で冷たい態度を取る母親を思い出してみよう。
彼女は「義務」として「愛さなければならない」と思っているものの「無意識の本音」はそうではない。

仮にそのことを彼ら彼女らに当てはめてみると
「義務として仕方なくしているけれど実はそんなことを学びたくはないのだ」という「事実」が浮かび上がる。

だとするなら彼ら彼女らは「学ぶことがヘタ」なのではなく
「学ばなければならない」と思っている「心」を無意識のうちに「身体」が裏切っている存在。

この「実態」は「学ぶこと」が本来持っている「楽しさ」からは程遠く
「苦行に耐える」彼ら彼女らは疲労の色を濃くするばかりで。

とはいえ「学ぶことの楽しさ」を手に入れるためには
それ相応の「基礎」はどうしても必要になることもあって。

せめて彼ら彼女らには「本当に好きなこと」を追い求めてもらいたい。
おそらくそこで発揮される能力は「義務として」のそれを格段に上回るだろうから。

幼い子どもたちは「大人の困惑」を物ともせず「なんでそうなの」と聞くもの。
その「純粋な好奇心」を思い出してもらえたらいいけれど。
コメント
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