フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

6月9日(土) 曇り、夜半雨

2007-06-10 12:33:52 | Weblog
  午前、大阪の天牛書店から『庄野潤三全集』(講談社)が届く。「日本の古本屋」で調べてここが一番安かった。10,800円也(一番高いところで31,500円)。全10巻だから1巻あたり1000円の計算になる。なんと安価な。嬉しいような申し訳ないような気分である。いつか早稲田の安藤書店のご主人も言っていたが、いまは本当に作家の全集の買い時である。
  フィールドノートの更新をすませ、昼食のドライカレーを食べてから、上野の東京都美術館で開催中の国立ロシア美術館展を見物に出かける。18世紀後半から20世紀初めにかけてのロシア絵画ということで、あまり馴染みがなく、それほど期待しないで行ったのだが、行ってよかった。考えてみれば、ロシアの19世紀は文学も音楽も大収穫期であったのだから、絵画だけ見るべきもののないはずがないのだ。展示は、古典主義の時代(18世紀後半)、ロマン主義の時代(19世紀前半)、リアリズムの時代(19世紀後半)、転換期の時代(20世紀初頭)という4つのセクションに分かれている。古典主義の時代の作品は画一的な表情の肖像画と絵葉書のような風景画ばかりで退屈だったが、ロマン主義の時代に入って人物も風景も物語性を帯びるようになり、リアリズムの時代になると「ありのまま」の描写を通してモデルの内面や社会の裏面に迫った作品、目の前の日常的な風景が同時に画家の心象風景でもあるような作品が台頭してくる。足を止めて見入ってしまう作品がたくさんあったが、肖像画では、イヴァン・クラムスコイ「ソフィア・クラムスカヤの肖像」とイリヤ・レービン「ニコライ二世の肖像」、風景画では、アレクセイ・セヴラーソフ「冬」とヴァシーリー・ポレーノフ「モスクワの庭」がとくに印象に残った。
  日本人のロシア(ソビエト)に対する態度は、アメリカに対する態度とは対照的である。それは単純に親米に対する反露(反ソ)ということではない。日本人のアメリカに対する態度は、全体として親米的であるが内部に反米的なものを抱え込んでいる。それに対して、ロシア(ソビエト)に対する態度は、全体として反露(反ソ)的であるが内部に親露(親ソ)的なものを含んでいる。たとえば親露(親ソ)的なものを象徴するのがロシア民謡への親しみである。小学校の音楽の教科書やNHKの「みんなの歌」が取り上げられてきたこともあって、「ともしび」や「トロイカ」といったロシア民謡は日本人の心の琴線に触れるものがある。それはアメリカのカントリー・ミュージックなどの比ではない。ロシア民謡は日本人の短調的抒情好み(センチメンタリズム)にも、北国・雪国志向にもピッタリである。日本の国土に決定的に欠けている「広さ」への憧れということもあるかもしれない(北海道は観光産業においてロシアのミニチュア版として機能してきた)。西洋の一角を占めながらもその周辺に位置し(後進性)、東西に長い国土のために、日本の隣国としても意識されてきたという歴史がある。ロシア(ソビエト)は日本人にとって近くて遠い国だが、遠くて近い国でもある。

           
          球形の世界の中心でケータイの写真を撮る私

  蒲田に戻り、シャノアールでドストエフスキー『地下室の手記』(光文社古典新訳文庫)を読もうとしたが、隣のテーブルの若い男女の会話と行動があまりに興味深いものだったので、読書の方は捗らなかった。
  夕食の後、TSUTAYAでレンタルした『木更津キャッツアイ ワールドシリーズ』のDVDを観る。ついに完結編である。でも、だれでもいつか青春にサヨナラをしなくてはいけない、というのは本当だろうか。
  映画の後、今日はロシア・デーだと決め、先日購入したチャイコフスキーの『白鳥の湖』のCD(2枚組)を聴く。断片的には聴いているが、全曲を頭から通しで聴いたのは初めてである(私はまだクラッシック・バレーを舞台で観たことがない)。一番長い曲でも8分台。大部分の曲は3分未満である。あまり長いとダンサーが疲れちゃうからだろう(と勝手に想像する)。物語の進行に併せて曲が変わる。それぞれの曲は場面場面にふさわしいものである。全曲を通して聴くと時間はかかるが、決して飽きることはなかった。これにダンサーたちの身体言語(オペラの歌詞と違って万国共通語だ)が加わったら、時間の経つのも忘れるのではなかろうかと思った。深夜、雨脚が激しなる。