フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

6月25日(月) 曇り

2007-06-26 02:40:44 | Weblog
  今日は月曜日。言わずと知れた「鈴文」の日である。もちろん朝食はとらない。お昼に「鈴文」のとんかつを食べる日に朝食をとるというのは、生ビールを飲む前にお冷やを飲むようなものである。午後1時頃、腹を減らして、満を持して、「鈴文」の暖簾をくぐる。珍しく客は私一人だけである。ランチのとんかつ定食(950円)ではなく通常のとんかつ定食(1300円)を注文する。「とん定」というのが符丁らしい。客が自分一人だけで、カウンター席に座っていると、目の前でとんかつを揚げているご主人の静かな気迫が伝わってきて、いささか緊張する。「とん定」は二度目である。ランチのとんかつ定食よりも一回り大きい。塩で二切れ、醤油で四切れを食べる。旨い。食べ終わって、新しく注がれたお茶を飲みながら(客は依然として私一人だけである)、「特ロースかつ定食は何グラムあるのですか?」とご主人に尋ねてみた。ご主人に声をかけたのはこれが始めてである。「300グラムです」とご主人が答えたので、「300グラムですか。そうすると私がいま食べたのは・・・」と重ねて尋ねると、「200グラムです」とのこと。本当は重さのことなどどうでもいいのである。ご主人と言葉を交わすことが重要なのである。「よく注文されるお客さんがいるけれど、300グラムはちょっと大変かもしれないな」と言うと、横から店員の女性が「女性でも注文される方がいますよ」と言った。よし、次回は「特ロース」(2100円)を注文してみるか。
  TSUTAYAで松田聖子のアルバムを2枚(Best of Best 13, Another side of Seiko 27)とペドロ・アルモドバル監督『トーク・トゥ・ハー』(2002年)のDVDをレンタルする。聖子のCDは明後日の質的調査法特論の補助教材である。カフェ・ド・クリエで、食後の休憩を兼ねて、持参した小川博『音楽する社会』の「アイドル現象の展開」を読む。その後、ジムへ。筋トレ3セットとウォーキング60分。直後は疲れるが、シャワーを浴びた後が気持ちいい。有隣堂で日垣隆『方向音痴の研究』(WAC)を購入し、ルノアールで読む。インタビュー集だが、最初のインタビュイーは全盲の社会学者、石川准さん(静岡県立大学教授)である。

  日垣 一度だけ石川さんのご自宅に伺ったとき、私は部屋に入ってから電灯のつけ方がわかりませんでした。夜でしたので、部屋の中は真っ暗です。石川さんにとって暗い部屋で電灯をつけないのは当たり前のことでしょうが、私にとっては眠るとき以外めったにないことです。
  石川 あのときはうっかりして電灯をつけるのを忘れてしまいました(笑)。すぐに言ってくださればよかったのに。私は、夜中に仕事をするときにも電灯はつけません。つまり暗闇の中で、パソコンに向かってキーボードを一人で打っていることになります。必要ないし、暗闇に怯えることもないからです。皆さんにとっては「ちょっと不気味だな」とか(笑)、「孤独に仕事をしているな」というイメージがあるのかもしれません。目が見えている人にとって明るいところと暗闇の違いは明らかでしょうけれど、私にとってはどちらもまったく変わりないのですよ。全盲の視覚障害者は、そもそも明るいとか暗いとかいう概念からは自由なのです。(26頁)

  有村アナ 目が見える人は、明るくなると「朝がきたな」と目が覚め、夕方になると「そろそろ家に帰ろうか」とか「ご飯を食べよう」と考えるものです。光が見える人と見えない人では、時間感覚が異なるものでしょうか。
  石川 人間は自然と、明るいか暗いかによって一日のリズムをつくっているようです。私の場合、昼夜の明かりでは一日のリズムがつくれませんので、言ってみればいつでも眠ろうと思えば眠れるところがあります。ですから、目が見える人とは生活のリズムがだいぶ違うかもしれません。夜中に仕事をしているせいもあるのですけど、私は午後から夕方にかけてとにかく眠くてこまります(笑)。
  有村アナ 石川さんはいつも何時ころに起きていらっしゃるのですか。
  石川 朝の三時から四時には目覚め、夜は一二時ころまで起きています。(28頁)  

  石川 研究者はたくさん本や論文を読まなければなりません。とくに文系はそうです。その意味では、全盲の私にはものすごく制約がありました。
  日垣 それでも社会学の勉強をしようと思ったのは、自分にしかできそうもないテーマが見つかったからなのでしょうか。
  石川 私はアイデンティティについての研究を専門としています。学生時代の私は、まず自分のアイデンティティと向かわなければ先へ進めないような気がしていたのです。社会学を突き詰めてみようと思った動機は、もう一つあります。歴史学では文献主義、資料主義が非常に徹底している。しかし社会学の世界では、視点や論理の新しさを評価してもらえる素地があると思ったのです。どれだけ資料に当たったかといことが仕事を評価する上での必要条件にされてしまうと、私にはどうになりません。その点、社会学の分野では私にもチャンスがあるのではないか。そんな動機から、社会学の道へ進むことにしました。(32-33頁)

  私は石川さんとは二度会ったことがある。最初は、大学院生の頃で、山田昌弘さんと一緒に吉祥寺にあった石川さんのマンションを訪ねた。3人で将棋を指すためである。当時、東大の院生で早大の正岡先生のゼミに顔を出していた山田さんが、同級生に全盲だが将棋の強い男がいるというので、引き合わせてもらったのである。石川さんお手製の将棋盤(9×9のマス目が竹ひごで引かれていて、手で触ってコマの位置を確認できるようになっていた)を使って、コマを動かすときに、「7六歩」とか「2一飛車打」とか自分の差し手を声に出していいながら、対局するのである。勝敗は忘れてしまったが、私の語り口が米長邦雄九段(当時)に似ていると石川さんが言ったのを覚えている。社会学の話はまったくしなかった。
  二度目はお互い大学の教員になって間もない頃で、早大で日本家族社会学会の大会が開かれたときだ。昼休みの時間に石川さんをどこかの食堂に案内しようとしてどこも混んでいそうだったので、大会のスタッフの控室に連れて行って、余っていたお弁当(ちらし寿司だった)を一緒に食べていたら、スタッフの一人が「お弁当が一つ足りないのですが、知りませんか」と言っている声がした。私と石川さんは、その声に耳をかさず、黙々とお弁当を食べた。あの時、われわれは耳の聞こえない人のふりをしていたのである。