フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

6月10日(日) 雨降ったり止んだり

2007-06-11 01:09:40 | Weblog
  お昼ごろ、激しい雷雨。それが上がるのを待って、散歩に出る。東急プラザの文具店でロディアの新製品「エピュレ」を見つけて購入。ロディアと言えばミシン目の入ったメモ帳、モールスキンと言えばしっかりと製本された手帳・ノート、と両雄は領土を分割して並び立ってきたのだが、ここに来て、ついにロディアが手帳・ノートに本格的に参入してきた。「エピュレ」にはブロック・ロディアのNo.13の大きさの手帳タイプとNo.16の大きさのノートタイプがあるが(色はオレンジとブラック)、今日購入したのはオレンジのノートタイプである。何に使うかはこれから考える。それが楽しいのだ。この手のノートは存在が目的に先立つのである。
  筆記具を忘れてしまったのでステッドラーの芯ホルダーを購入してから、カフェ・ド・クリエで岡田暁生『西洋音楽史』(中公新書)を読む。

  「もちろん中世とルネサンスの境界線がそう単純でないことは、今では文化史の常識である。それでもやはり、パリのノートルダム大聖堂を見た後でブレネレスキ設計のドームをもつフィレンツェの大聖堂を訪れる時、そこにはまったく別の感性が存在していることを実感しない人はいないはずだ。ここにある大らかな優雅さは「人生の美を謳歌することは決して罪ではない」ということを発見した人々の喜びと、決して無関係ではなかっただろう。教科書的に「人間中心主義」などというと堅苦しいが、ルネサンスとは要するに、今でもイタリアの諸都市に満ち満ちているあのわき立つような生の喜びのこと-今ここで自分が生きているということが本当に幸福に感じられる、そしてこの幸福を思い切り味わっていいのだと心から思える、あの感覚のこと-だと、私は思っている。…(中略)…中世美術を見ていると、あるいは一四世紀のマショーのミサ曲などを聴くと、当時の人々は常にあの世の恐怖におののきながら生きていたに違いないという気がしてくる。…(中略)…けれどもデファイの音楽とフィレンツェの大聖堂は、シンプルで大らかで暖かい開放感を完全に共有している。ここにはもはや彼岸への畏れはない。「生きていていいのだ、生きて美しい音楽を楽しんでいいのだ」という安心感-これがルネサンス音楽の最大の特徴である。」(32-34頁)

  私はこの箇所を読んで、いまフィレンツェにいる西洋古典学の宮城先生ご夫妻のことを考えた。宮城先生はホームページをお持ちで、そこに「フィレンツェ便り」を毎日更新されている。それも生半可な分量ではない。私の「フィールドノート」もしばしば人から「よくそんなに毎日書けますね」と呆れられているが、そういうことは宮城先生の「フィレンツェ便り」を読んでから言ってほしいものである。宮城先生は「フィレンツェ便り」を書くために特別研究期間(サヴァティカル)を取ったのではなかいとさえ思えてくる。うらやましいよな~、ルネサンスの中心地で日々暮らしているなんて! でも、いいのだよ、宮城先生。「人生の美を謳歌するのは決して罪ではない」のだから。

  ところで、「なつ」の母猫がまた仔猫を産んだようである。「ようである」と推量で書くのはまだ仔猫の姿を確認していないからだ。ウチの前の私道を数軒行った先のお宅の庭の隅の盆栽がたくさん並んでいる棚の下の隙間で産んだようである。数日前の夜、コンビニに飲み物を買いに行ったとき、その辺りで仔猫の鳴く声がした。今日、昼間、見に行ったら棚の下にうずくまっている母猫と目があった。夕方、暗くなってから、母猫はウチの勝手口に餌をもらいにきた。これまで毎日来ていたのだが、ここ数日は顔を見せなかったのは、仔猫のそばを離れられなかったからに違いない。しかし食べないことには乳が出ないから、頃合いを見計らって食物を求めて出かけてきたのであろう。前のお産のときは、人間かカラスのせいか、あるいは仔猫自体の生命力が弱かったのか、一匹も育たなかった。だから今度はちゃんと育ってほしいと思うのだが、なにしろこの雨である。雨に濡れて体が冷えると体力のない仔猫は簡単に死んでしまう。生き延びることができるかできないか、それは仔猫一匹一匹の生まれ持った運ではないかと私は思う。だから必要以上の介入はしない、そう自分に言い聞かせているのだが、どうも気になっていけない。