フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

6月1日(金) 晴れ

2007-06-02 10:10:09 | Weblog
  昼から大学へ。4限の大学院の演習の本日のテキストは清水幾太郎『青年の世界』(1937年)。『社会と個人』(1935年)のアカデミックな文体から、一般の読者を対象としたジャーナリスティックな文体への転換がはっきりと見てとれる。東大の社会学研究室を去って5年、清水は自分の歩いていくべき道をはっきりと定めたのである。
  ロシア文学の草野先生から『21世紀 ドストエフスキーがやってくる』(集英社)という本を頂戴する。40数名の筆者・話者(草野先生もそのお一人)によるドストエフスキーをめぐる評論、エッセー、対談。ライトで口当たりのよい小説が溢れる現状への反発だろうか、たまたま私の周りでそういうことが起こっているに過ぎないのだろうか、ドストエフスキーが好き、ドストエフスキーを読んでみたいという学生が増えている気がする。
  6限の「現代人の精神構造」は安藤先生の3回目(最終回)。事前にコースナビにアップされた資料は大量で、これまでのペースから考えて今日の授業で全部を扱うことは無理だろうと思っていた。しかし、駆け足ではあったものの、ちゃんと全部をこなしてしまった。この3回の講義は安藤先生にとって「新作」であった。過去に他の授業で話した内容をそのまま反復したり、加筆修正を加えたりしたものではない。3回分の講義を一から準備するというのは、教員ならば誰でもわかるが、大変なことである。安藤先生は来年度「『私』を読む」というテーマの演習を開講される予定だが、おそらく今回の講義がその土台となることだろう。3回の講義で取り上げた小説は十数篇にのぼるから、単純に計算して、それらを毎回の演習で1作ずつ丁寧に取り上げるだけでも半期の演習として立派に成立する。今回の講義を聴いて小説と「私」というテーマに関心をもった学生、安藤先生のファンになった学生は、ぜひ受講するとよいと思う。焼肉屋「ホドリ」でTAのI君も交えて食事をして帰る。
  帰宅して、NHK教育TVの「芸術劇場」を視聴。お目当ては舘野泉というピアニストのスタジオ生演奏である。脳溢血の後遺症で右手の自由を失い、2年間のリハビリを経て、左手だけのピアニストとして復活した人である。既存のピアノ曲を左手だけで弾くのではなく(それは不可能)、舘野のためにさまざまな作曲家が作った左手のためのピアノ曲を弾くのである。普通、左手は鍵盤の左半分が運動領域である。しかし左手のためのピアノ曲では鍵盤全体を左手だけでカヴァーしなくてはない。単純にこれだけでも大変なことだが、さらに、左手のためのピアノ曲では、普通のピアノ曲で右手と左手が分担している役割を左手だけでしなくてはならない。左手のためのピアノ曲は旋律だけの曲ではないのだ。スタジオで演奏されたのは吉松隆作曲の「水のパヴァーヌ」と「ロック」の2曲。左手の掌をいっぱいに広げたときの距離以上に離れた場所にある鍵盤の音を同時に鳴らすことは出来ないという制約(不自由さ)を前提とした上で、これだけの自由な創造ができるのだということに息を呑んだ。