同化求めるのも差別 無意識の態度、ヘイトスピーチ助長
これはその通りですね。
多少曖昧なところがある。
それはどうかな? まず、論者は、「同化」という語で、欧米語の何をあてているのか?
Assimilationが一方通行、 Integration が双方向の融合みたいな感じで使われているのを読んだことがあるが、もっとも、Assimilationでも、双方向の統合みたいな意味でつかわれることもあるし、逆にintegration でも一方通行の意味で使われる場合もある。
ただ、前提となっているIdentity politics がもう古いものになりつつある。
聞いたことがない。
訛りをもつがゆえの沖縄や東北の人の苦労話はよく聞く。
さっぱり、意味がわかららない。
日韓の政治対立がきっかけになっているとか、助長しているとか、という記事は読んだことがあるが、正常化さえすれば、人間間もうまくいく、というのは聞いたことがない。
なんていうか、空想の論敵を攻撃するStraw man fallacy であるが、いいたいことは、例えば、同性愛者や異性の服を着るのが好きな人たち、あるいは、東北弁、英語アクセントの話し方が東京弁と異なる人々など、多数強者の人々と嗜好やありかた、行動の仕方が多少、異なるからといって、少数弱者を多数強者の型にはめようと強制してはいけない、ということであろう。
それは、そうである。しかし、
” 同化”を強制するのが間違っているものと、、”同化”を強制してもいいもの、同化を強制したからといって、間違いでないものがある。。
強制が間違っているのは、例えば、同性愛者を”普通”にすると称して”異性愛”を強制するとか、そこまでいかなくても、笑いものにするとかである。方言についても同じ。
これらは、同化しなくてもいいし、そうしたあり方、振舞い方を尊重すべきである。
他方、強制が許されるとは、仮に出身国では、公にポコチンをだすことがゆるされていたとしても、日本の公的な場所では、他の日本人と同じようにポコチンを隠すことを強制するとか、出身国では、良かったとしても、いいなずけと結婚することを強制していはいけない、ことを強制するとか、私的な個人間で何語を話してもいいが、公の議論の場や文書では日本語を強制するとか、である。 私的な活動でも、例えばの話、JapanTimesという新聞社はおれが日本語で投書しても、採用せず、英語で書く事を強制するがだからと言って、レイシストとは言えないだろう。
日本民族や朝鮮民族などの民族のアイデンティティーを捏造、美化して、無闇に、違いを尊重しすぎる物語も克服すべきだ。
結論として、英語圏の最近の議論をふまえて、もう少し議論を細かにわけるべきだった。
更新 Deserved to be thrown out because they failed to integrate ”同化しないなら出て行け!
排外主義的レイシズムとは、日本の伝統や血統とは異なる集団を劣等視したり、互いの差異を誇張したりすることで排除しようとする態度で、多くの人にとっての一般的なレイシズムのイメージはこれにあたるだろう。
これはその通りですね。
一方、同化主義的レイシズムとは、異文化集団に日本社会の「普通」で「正常」な文化への同化を強制する態度を指す。逆に言えば、「異常」で「奇妙」な文化を捨てさって、異質性が“見えない”状態にまで同化しないかぎりは対等な社会の構成員とは認めないという態度である。
多少曖昧なところがある。
欧米の多くの国で、「同化」はマイノリティーのアイデンティティーを脅かすということから、差別の同義語として理解されている。
それはどうかな? まず、論者は、「同化」という語で、欧米語の何をあてているのか?
Assimilationが一方通行、 Integration が双方向の融合みたいな感じで使われているのを読んだことがあるが、もっとも、Assimilationでも、双方向の統合みたいな意味でつかわれることもあるし、逆にintegration でも一方通行の意味で使われる場合もある。
ただ、前提となっているIdentity politics がもう古いものになりつつある。
しかし、日本ではむしろ好ましいことだと考えられている。例えば、「転校生が土地の言葉を話すようになってくれたとき、本当の仲間になれた気がした」といったエピソードは美談として語られる。
聞いたことがない。
だが、生来の言語を捨てなければ「本当の仲間」に入れてもらえない転校生の疎外感が語られることはあまりない。
訛りをもつがゆえの沖縄や東北の人の苦労話はよく聞く。
「同化」という現象は、日本においてはある種のロマンチシズムを喚起する美しい物語であって、レイシズムとつながるような疎外の現実はいつも不思議と語られずに終わってしまう。一見見えにくい日本社会での排外主義はこうした物語化によって支えられているのである。
さっぱり、意味がわかららない。
その意味で、ヘイトスピーチの原因は日韓の政治対立であって、そうした異常事態が収まりさえすれば「普通」に戻るといわんばかりの主張は問題である。
日韓の政治対立がきっかけになっているとか、助長しているとか、という記事は読んだことがあるが、正常化さえすれば、人間間もうまくいく、というのは聞いたことがない。
まず、排外主義的レイシズムの原因を日本社会の外部に押しやっていることが無責任だ。そして、レイシストも民族的マイノリティーもみんな「普通」に同化すれば問題は解消するという楽観的な態度こそが、何年もの間ヘイトスピーチを放置することにつながったことへの反省がない。
なんていうか、空想の論敵を攻撃するStraw man fallacy であるが、いいたいことは、例えば、同性愛者や異性の服を着るのが好きな人たち、あるいは、東北弁、英語アクセントの話し方が東京弁と異なる人々など、多数強者の人々と嗜好やありかた、行動の仕方が多少、異なるからといって、少数弱者を多数強者の型にはめようと強制してはいけない、ということであろう。
それは、そうである。しかし、
” 同化”を強制するのが間違っているものと、、”同化”を強制してもいいもの、同化を強制したからといって、間違いでないものがある。。
強制が間違っているのは、例えば、同性愛者を”普通”にすると称して”異性愛”を強制するとか、そこまでいかなくても、笑いものにするとかである。方言についても同じ。
これらは、同化しなくてもいいし、そうしたあり方、振舞い方を尊重すべきである。
他方、強制が許されるとは、仮に出身国では、公にポコチンをだすことがゆるされていたとしても、日本の公的な場所では、他の日本人と同じようにポコチンを隠すことを強制するとか、出身国では、良かったとしても、いいなずけと結婚することを強制していはいけない、ことを強制するとか、私的な個人間で何語を話してもいいが、公の議論の場や文書では日本語を強制するとか、である。 私的な活動でも、例えばの話、JapanTimesという新聞社はおれが日本語で投書しても、採用せず、英語で書く事を強制するがだからと言って、レイシストとは言えないだろう。
日本のレイシズムの問題を理解し、乗りこえるには、「普通」に戻るのではなく、一人ひとりが「同化」を美化する物語を克服しなければならない。極端でわかりやすい排外主義的レイシズムだけをひとごとのように問題化し、穏健でわかりにくい同化主義的レイシズムを「普通」のこととして温存する構造を打破しないかぎり、ヘイトスピーチの被害を食い止めることはできない。
日本民族や朝鮮民族などの民族のアイデンティティーを捏造、美化して、無闇に、違いを尊重しすぎる物語も克服すべきだ。
結論として、英語圏の最近の議論をふまえて、もう少し議論を細かにわけるべきだった。
更新 Deserved to be thrown out because they failed to integrate ”同化しないなら出て行け!