Taming the Gods: Religion and Democracy on Three Continents
Ian Buruma, Joanne J. Myers
March 10, 2010
via mozuさんといった。
わりに面白い講演である。
結論から、言えば、イスラム教を含めて宗教と自由民主主義は両立する、ということだろう。イスラム教が暴力などと結びつけられて恐れられているが、しかし、 キリスト教や仏教などの他の宗教でも暴力と結びつくことがある。(例えば、キリスト教武闘派や、オウム真理教)問題はむしろ、受け入れ国からも祖国からも疎外された若者が極端な宗教組織と結ぶついて、暴力行為に至ることがあるということであるが、が、しかし、キング牧師のように、宗教的信条に根を張りながらも宗教とは関係なく政治を論じることもできる、といったところか?
いくつか面白い洞察があって、
例えば、フランスの世俗主義について、
われわれは平等であるが、私的にやることについては不問、という考えは魅力的だという。もっともである。
総理大臣が靖国参拝するというと、細かな議論をすることなく、眼をつり上げておヒスを起こしていた人が見逃していたのは、私人として総理大臣の参拝の自由ということで、ーーーー総理大臣の私人として行為がありえない、というのは暴論であるーーーあの騒動は、そうした私人の自由まで粉砕してしまった側面がある、という意味では自由民主主義の自殺的な側面もあった。異教徒に不寛容な欧米の論者はともかく、リベラルを標榜する論者まで、その点についての配慮に欠けていたのは不思議である。
まあ、それはそれとして、
多文化主義について批判である。
異なる文化・民族を別個・分断しその指導者とやりとりして統治するというのは植民地主義の残滓である、という。
また、当人やその先祖に由来する文化にしがみつかせて、統合や同化を云々するのは間違っており、帝国主義的でさえある、といった類の多文化主義は、すでに死に体である、という。
ーーー死に体かね?日本では、進歩主義的な顔をして叫んでいる人もいるようだが。
宗教について。宗教は暴力を招来することもあるが、基本的に、
主に死や暴力の問題を扱うものであり、暴力の衝動や恐怖を、儀礼的な表現を与えることで鎮めようとするものである、と。
一つの面白い洞察である、と思う。
考えさせられる講演である。
一方でイスラム移民などの過激化とそれに対する恐怖がある。
他方、外国人移民などに対する過激化とそれに対する恐怖がある。
最近の英語圏記事などを読んでいると、双方の参加者には共通したものがあるようにもみえる。
双方とも、社会の主流から疎外され、隅に追いやられた人々の反乱のようなものを感じる。(外国人移民・貧困白人などなど)
疎外されつまはじきにされた人々をすくい取ってくれる適切なコミニティーあるいは制度の欠落があり、その嘆きと怒りを吸い取っていく極端な団体がある、といった構図があるのではないか、という気もする。
日本に置き換えれば、やはり、非正規社員やニートなどが秋葉の小さなコミニティーで遊んでいるうちはいいが、しかし、そうした場所さえ見つけられない場合、極端な団体がそこに忍び寄る可能性は十分にある。
時代の趨勢から、ある程度の移民の受け入れ、また、非正規社員制度の採用などは必然的なところもあろうが、しかし、そうした、つまはじきにされ、あるいは、孤立した移民や国民が極端に走ることなく、相談できたりうちとけたり自尊心がもてるなんらかのふれあいの場所・コミニティーが必要なのだろう。
、
Ian Buruma, Joanne J. Myers
March 10, 2010
via mozuさんといった。
わりに面白い講演である。
結論から、言えば、イスラム教を含めて宗教と自由民主主義は両立する、ということだろう。イスラム教が暴力などと結びつけられて恐れられているが、しかし、 キリスト教や仏教などの他の宗教でも暴力と結びつくことがある。(例えば、キリスト教武闘派や、オウム真理教)問題はむしろ、受け入れ国からも祖国からも疎外された若者が極端な宗教組織と結ぶついて、暴力行為に至ることがあるということであるが、が、しかし、キング牧師のように、宗教的信条に根を張りながらも宗教とは関係なく政治を論じることもできる、といったところか?
いくつか面白い洞察があって、
例えば、フランスの世俗主義について、
there is something attractive about the French notion that we're all equal citizens and you don't ask what you do in private. Everybody is the same.
われわれは平等であるが、私的にやることについては不問、という考えは魅力的だという。もっともである。
総理大臣が靖国参拝するというと、細かな議論をすることなく、眼をつり上げておヒスを起こしていた人が見逃していたのは、私人として総理大臣の参拝の自由ということで、ーーーー総理大臣の私人として行為がありえない、というのは暴論であるーーーあの騒動は、そうした私人の自由まで粉砕してしまった側面がある、という意味では自由民主主義の自殺的な側面もあった。異教徒に不寛容な欧米の論者はともかく、リベラルを標榜する論者まで、その点についての配慮に欠けていたのは不思議である。
まあ、それはそれとして、
in Europe you certainly hear it a great deal. Multiculturalism has been strongest, not surprisingly, in Britain and the Netherlands, partly because of their colonial histories. Treating different groups, different religious or ethnic groups, as separate entities was also, of course, the way that the British Empire was run. You divided it into groups and you dealt with their leaders, and you didn't try and encourage anything else.
The other reason that I think multiculturalism, as an ideology―not as a description of reality, which it is in the United States and increasingly in Europe, too, but as an ideology―namely, the idea, the rather dogmatic idea, that you have to actively encourage people to stick to their old cultures and that any attempt to integrate or even assimilate is somehow wrong and neocolonialist, neo-imperialist arrogance. That is the multiculturalist ideology, held for a long time on the Left in Europe, largely out of guilt, partly guilt for colonialism, partly because of what happened in World War II.
But I think this ideology is actually now not even on its hind legs. It's pretty much dead.
多文化主義について批判である。
異なる文化・民族を別個・分断しその指導者とやりとりして統治するというのは植民地主義の残滓である、という。
また、当人やその先祖に由来する文化にしがみつかせて、統合や同化を云々するのは間違っており、帝国主義的でさえある、といった類の多文化主義は、すでに死に体である、という。
ーーー死に体かね?日本では、進歩主義的な顔をして叫んでいる人もいるようだが。
宗教について。宗教は暴力を招来することもあるが、基本的に、
religion is a ritual way to deal with problems, primarily of death, but also violence. Look at Christian art or indeed some forms of Buddhist art. It shows that very clearly. These are ways of dealing with violence, violent impulses, fear of violence, and so on, and death, that are constrained by giving it a kind of ritual expression.
主に死や暴力の問題を扱うものであり、暴力の衝動や恐怖を、儀礼的な表現を与えることで鎮めようとするものである、と。
一つの面白い洞察である、と思う。
考えさせられる講演である。
一方でイスラム移民などの過激化とそれに対する恐怖がある。
他方、外国人移民などに対する過激化とそれに対する恐怖がある。
最近の英語圏記事などを読んでいると、双方の参加者には共通したものがあるようにもみえる。
双方とも、社会の主流から疎外され、隅に追いやられた人々の反乱のようなものを感じる。(外国人移民・貧困白人などなど)
疎外されつまはじきにされた人々をすくい取ってくれる適切なコミニティーあるいは制度の欠落があり、その嘆きと怒りを吸い取っていく極端な団体がある、といった構図があるのではないか、という気もする。
日本に置き換えれば、やはり、非正規社員やニートなどが秋葉の小さなコミニティーで遊んでいるうちはいいが、しかし、そうした場所さえ見つけられない場合、極端な団体がそこに忍び寄る可能性は十分にある。
時代の趨勢から、ある程度の移民の受け入れ、また、非正規社員制度の採用などは必然的なところもあろうが、しかし、そうした、つまはじきにされ、あるいは、孤立した移民や国民が極端に走ることなく、相談できたりうちとけたり自尊心がもてるなんらかのふれあいの場所・コミニティーが必要なのだろう。
、
フランスの共和国理念については、何系かとか何教徒かとかいうのは家でやってくれ、公的な場ではお前はフランス市民だろ、というのはさっぱりしていていいところはやはりあるんですよね。逆に差別の実態が隠蔽されてしまうという問題はあるのですけれども。
→
全くですね。
○○人・教徒などという理由で差別的虐待を受けているのだから、単純にフランス人と括られるのも実態にそぐわない、ということもあるのでしょう。
他方、歴史偶然的区別をそのまま公認してしまえば、その区別が継続・再生産されてしまう、というジレンマもある。
公的な場面では単純に国民だ、というのは基本的には妥当だと思うのですが、差別的事件はその理由を明記して、それが間違っていること、差別に理由がないこと、同じ、国民であること、などを強調していくのも一つの方法かな、とも思います。
隠蔽されやすいというのは、例えば人種で統計をとること自体が法律で禁止されていて社会実態が分からないとか、平等主義に反するのでアファーマティブ・アクションに類するものは一切禁止とか形式主義に陥っている部分があります。
それは別にしていろいろ問題はあっても彼らの同朋意識の強さはなんとなく羨ましく感じることがありますね。
そうした統計方法に消極的である、というのは個人的には同情します。やはり、恣意的区別の再生産という問題がある。
アファーマティブアクションについては、これも禁止というのもいかがなものか、とおもいますけれど、かなり例外的政策であってしかるべきだと思います。
日本の場合には、現状では、なによりも、出身国差別や年齢差別、男女差別などの撤廃の徹底に関する通達・広報を政府が積極的にやっていったほうが実りあるように思っています。
本土では形式主義的平等主義でなんとか繕えるところもありますが、海外県にまで目を広げるとなんだか無理のある擬制に見えてくることもあったりします。例えば少数の白人有力者が黒人の住民を牛耳っているような構図があったりする。そこで例えば白人の有力者に対して黒人住民が連帯して抗議すると政治に人種を持ち込んでいると非難されたりするといった具合に。
こうなると人種対立や宗教対立の解消のために国民なり市民なりの上位カテゴリーを設定したはずなのに、それが対立の存在そのものを抹消するための口実になっているといいますか、転倒しているように見えます。
とは言っても、どこでも似たような問題があり、対処の仕方に国ごとに違いがあり、それぞれ長所と短所がありという話であって、とりたててフランスを理不尽だと思っている訳ではないです。英国や日本にはない可能性もある。
日本についてはあまり観念的にならずに実用主義的に問題を処理する仕組みをつくっていくのが向いているのではないかと思いますね。~主義対~主義とやっていてもあまり実りはなさそうな気がします。
→
例えば、
http://www.kcra.com/news/22886503/detail.html
>例えば少数の白人有力者が黒人の住民を牛耳っているような構図があったりする。
→
海外県の事情について疎いのでわかりませんが、例えば、ある有力者が多くの人を牛耳っていた、というだけでは、まだ、差別とはいえない。ときたま、当該有力者の肌が白く、牛耳られていた人々の肌が黒かった、というのでも差別とはいえない。肌の色によって、不当な優遇をうけた、とか、不当な待遇をうけた、という事実があって、差別といえる。それを論じていくことはできると思いますし、それを法的に、あるいは社会的に問うていくというのが原則だと思います。
逆に、統計で、人口比と比例していないからといって差別があったのだ、と推定するのはいきすぎだと考えます。
>こうなると人種対立や宗教対立の解消のために国民なり市民なりの上位カテゴリーを設定したはずなのに、それが対立の存在そのものを抹消するための口実になっているといいますか
→
人種対立解消のために、国民の上位カテゴリーを設定したのか、どうか、疑問のあるところです。むしろ、こうした区別の生産・再生産が対立を生産することになり、それを克服しようとして、公の取り扱いでは、国民なり市民という概念に解消させよう、としているのではないでしょうか?
>とりたててフランスを理不尽だと思っている訳ではないです
→フランスの事情がわからないのですが、禁止までしてしまったところに問題があるような気もします。
>日本についてはあまり観念的にならずに実用主義的に問題を処理する仕組みをつくっていくのが向いているのではないかと思いますね
→全くその通りだと思います。
color blind かcolor sensitiveか、なかなか難しい問題ですね。
少し書き方が雑でした。
例えば、
http://findarticles.com/p/articles/mi_qa4074/is_200704/ai_n21099757/pg_2/?tag=content;col1
グアドループというところは白人の農園主と黒人奴隷のプランテーションという典型的な植民地だったのですが、ここで起こった黒人奴隷の蜂起と解放の経験が普遍主義的な共和国理念の形成に役割を果たしたと言われています。ハイチのほうがよく知られていると思いますけれども。
それで宗派対立やら身分制やらの乗り越えとして「市民」や「国民」の理念が革命の頃に打ち出された訳ですが、こうした経験を通じて人種を超えたより普遍主義的な理念として鍛えられていくということですね。
差別か否かという点についてはもちろん法的に平等な権利を享受していますし、制度的差別はないはずです。ただ植民地時代の社会経済構造を引きずっていて、人種間の緊張が生まれる土壌はあるようですね。
http://www.dailymail.co.uk/news/worldnews/article-1150062/Britons-flee-French-island-Guadeloupe-rioters-turn-white-families.html
金融危機の後にここで暴力的な抗議活動があったんですが、その際には人種暴動の様相を呈していました。英語メディアはストレートに報じていたんですけれども、仏語メディアは人種対立の要素を否認しようと努めていました。これは社会対立だと。それはそれで正しいところもあるのですけれども、人種に言及することそのものへの恐怖に怯えるような空気というのか、そんなものは共和国には存在するはずがないのだと言わんばかりの否認の強さにちょっと異様なものを感じたということです。極端な場合、人種に言及するだけで「人種主義的」とされたりと、color-blindでなければならぬ、というのも逆の意味でcolor-sensitiveに過ぎるのではないかなと。
そういえば、この件については前にブログに書いたことがありました。
http://rockhand.cocolog-nifty.com/blog/2009/02/post-c497.html
これは非常に複雑な問題なんだろう、と思います。
> で宗派対立やら身分制やらの乗り越えとして「市民」や「国民」の理念が革命の頃に打ち出された
→ええ、そういうことだろう、と思います。
それと、以前書いた投稿
Understanding Postcolonialism
http://blog.goo.ne.jp/kentanakachan/s/%A5%B5%A5%EB%A5%C8%A5%EB
の ファノン vs サルトル の議論で、(本に紹介された限りでは)ぼくはどちらかというとサルトル側に与したい気があるのです。(記憶がただしければ、本の著者はファノンに同情的だったように思いますが・・・)
まず人種という概念がそれほど明確ではない。
英語圏なんかだと、一般人むけに、
white yellow brown,blackと肌の色でわけたりしていますけど、それだけが徴表だとすれば、かなりぼんやりした区別ですね。それなら、人間、あるいは、国民とした上で、色白系と色黒系でいい。実際には、髪の毛の質とか色とか、顔面のつくりの醤油系とかソース系とか、の徴表もくわえているのでしょうけれども、”種”というほどの分類ではない。単なるある国民・個人の特徴、と言った程度になる。また、その程度に収めてしまうことが重要だと思うのです。
単純に眼が大きいとか、髪の毛が薄いというのと類似の身体的特徴を、社会生活で重要な能力とか、性格とか、あるいは、権利とかに結びつけてしまった迷信が、出眼金属とか禿げ人種に降格してしまうと強化されてしまうように思うのです。
ですから、最終的にはやはり、能力や性格が主だって重要な役割をはたすべき公的あるいは、社会的な資格、資格をえる機会などについては、そうした身体的特徴は無視されてしかるべきものとして扱うべきだろう、というのは十分合理性がある。(個人的に眼が大きい人が好きとか、禿の人は嫌いとか、色黒の人が好き、とかはあってもいいわけですが・・・)
ただ、歴史的に色黒の人がその血統その他なども加えて”黒人”として括られ、それを徴表として差別されてきた、また、現在でも差別されているという歴史的事実がある地域がある。
これは、韓国系や民、ラティーノなども類似のことがいえるのでしょうけど、現在も、そのように認識され、あるいは、自己認識し、かつ、その認識をもとに、差別的な待遇や侮辱的な言動を日々受けていると感じている人達にとっては、単純に国民や市民といわれることにも抵抗がある、ということもわからないではない。
そこで、アイデンティティポリテックスとか様々な克服運動がある、というのも理解できないわけではない。(ただ、これはこれで、歴史的に変化・解消すべきものを固定化してしまう、という弊害がある。)
で、法制度的に過酷に差別されてきた人達に対するアファマティブアクションも禁止というのは行き過ぎなんだろう、と思います。ただし、やはり、全く差別に関与しなかった例えば、色白系が逆差別をうけるという大問題もあるので、やはり、例外的なものにならざるえない、とも思います。
で、統計に関していうと、例えば、犯罪統計や知能指数統計で、そうした曖昧な基準である”人種”や”民族”の犯罪率や知能指数統計を提示することに意味があるのか、というと偏見を助長するだけで意味がないのではないか?
あるいは、貧困分布なども、参考や警告にはなると思いますけど、政策として具体的な何か積極的な是正策につながるか、というと貧困対策をうながすべき所得層はあっても、”人種”に結びつけるとややこしいことになる。
結局是正のための積極策よりも、差別の禁止、差別があった場合にそれを是正する、というのがメインになっていくのだろう、と思っています。
>、人種に言及することそのものへの恐怖に怯えるような空気というのか、そんなものは共和国には存在するはずがないのだと言わんばかりの否認の強さにちょっと異様なものを感じたということです。。
→
なるほど。
なかなか難しい問題ですね。現状がどのような感じなのかわからないので、何とも断定できませんが、白黒と区別してしまうことで、より対立を助長してしまう側面がある一方、白黒に現実にわかれているのにそれに眼をつむってしまう、というのもいかがなものか、といったところなんでしょうね。
>極端な場合、人種に言及するだけで「人種主義的」とされたりと、color-blindでなければならぬ、というのも逆の意味でcolor-sensitiveに過ぎるのではないかなと
→おっしゃるとおりですね。
今回の件はこれだけではなく、他にも、いろいろな複雑な問題をはらんでいる、と思います。
さまざまな事例を通して、あるいは、ご意見を窺って、またいろいろと考えていきたい、と思います。
ご意見ありがとうございました。