Japanese and Koreans invaded Asia. We apologize.

Ethical Criticism of Art

2008年09月21日 13時20分14秒 | Weblog
 実は、Aesthetics.を買ったとき、もう一冊美学の本で気になる本があって、美学と道徳についてなんだが、読んで見ようかなとおもったのだが、書評で酷評されていたからやめた。
 で、ネットでみつけたEthical criticism of Artが案外面白かった。
 耽美主義というのがある。(・・・ほぉ・・・「たんび」と読むんやなあ、「ちんみ」かと思ったが、「ちんみ」じゃ「珍味」になっちゃうからなあ・・)

 酒、女、卑猥な服飾、煙草の煙、倦怠感漂う表情・・・・芸術が描くような退廃的なムードに若い頃はあこがれたこともあったが、いまでは、そんなことも面倒くさい。
 そうした退廃的な生活を描いた作品は芸術としていかがなものか?その退廃さ故に当該作品の芸術としての評価に影響を与えるか?それとも芸術はその作品の道徳性によって評価されてはならず、審美的な価値だけ評価されるべきか?などなど面白い問題である。
 ちょっとメモ風にまとまると、

1 美・芸術が道徳を凌ぐ最高の価値である、

 とする説がある。「善悪?ふふふっ、お坊ちゃん、そんなことは問題じゃないわ、いかに美しく生き、いかに美しく死ぬかが問題なのよ。」
もっとも、こうした説がしばしば含意するところの、快楽主義やエゴイズムも一種の道徳観である。としても、

2 芸術の評価は、道徳的視点抜きに芸術的にのみ評価されるべきである、

 とする説がある。しかし、道徳的な視点抜きでは芸術的評価を出来ない作品もある。特にいわゆる反道徳的な作品は例えば、ブルジョア的道徳観に対する批判的な道徳的な態度が理解の前提となる。

そこで、芸術の評価に、道徳的視点が混入することがあることを認めながら、

3 芸術の価値は、その作品の道徳性によって評価が左右されない。不道徳だからといって、芸術の価値が下がるわけではない、

とする説がある。しかし、「意思の勝利」のような作品をみればわかるようにカメラワークなど優れた芸術性を有しながらも、ナチを称賛する故に、視聴者は道徳的視点から、作品に引き込まれないから、芸術的評価も下がる。 そこで、

4 芸術の価値は、その作品の道徳性によって評価が左右される場合がある、

とする説がある。以上の説の難点を克服しているものの、道徳性が芸術的評価に影響する場合とそうでない場合の区別が明らかではない。とすれば、端的に、

5 芸術の価値は、その作品の道徳性によって、多かれ少なかれ、左右される

とする説が妥当である。これを極端にして、

6 芸術の価値は その作品の道徳性によってのみ評価が左右される、

とする説もあるが、形式美やカメラウォークなどなどの芸術性を無視している、と批判される。

 以上のような問題以外に、例えば、芸術は人生の教訓を与えるか、与えることがあるか?というような問題提起もある。ポズナーが反対するがーーーこいつはどこにでも口出す奴やなあー(参考投稿)ーー芸術は命題的教訓以外の仕方で、人生の当為や意味について教訓を与えることができる場合がある、とするのが妥当である。もちろんすべての芸術がそうである、というわけはない。しかし、愛とは何か、という論文があってもよいし、、愛とはどんなものか、を描写する芸術があってもよい。その両者から我々は道徳的認識を深めることができる。また、芸術は人生をどのように了解するかの視点を与える場合もあるし、また、「愛は勝つ」と言ったちんけな命題的な教訓という形ではなく、またそうした形ではとらえられない具体的場面での風景・心象風景・決断・行動・葛藤を通じた徳性・友誼・正義などを教授してくれることもある。

 もっとも、芸術は人に道徳的に良い影響、悪い影響を与えるとは限らない。
 そして、芸術が不道徳であるからといって、あるいは、人に悪影響を及ぼす可能性があるからといって、全面禁止すべきだとは限らない。

ーーーてな感じかな。

 おれは、逆に、道徳的評価に美的観点がつよく影響するように思う。
 「みっともない」や「恥ずかしい」などは他者の視点からみた評価とも言えるが、しかし、これも美的な観点からの道徳的評価である場合と考えられる場合もある。 とくに、「潔さ」などは、一種の美的観点からの道徳的評価ではなかろうか?

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