Japanese and Koreans invaded Asia. We apologize.

本 日本の美意識

2008年03月19日 01時38分03秒 | Weblog
日本の美意識
墓参りの帰りに本屋に寄って買った本。
美は「滅び」にあり、というの宣伝文句が気にいった。




18
・・旅は、いわば現実世界から他界へと向かう行為であり、いいかえれば擬似的な「埋葬」を意味する。

18・・・例えば、結婚に際して花嫁は、死者の装束である白無垢をまとい、埋葬される死者のごとく・・・婚家に赴く・これは埋葬によってそれまでの生命を浄化するように再び「嫁」として生まれ変わるためのいわゆる「通過儀礼」である。

ふ~ん、そうだったのかああ。
優美
41
古事記や日本書紀をみると太陽の神、月の神、山の神・・・これらがいわゆる八百万の神と呼ばれる物である。・・・そしてそれらの神は特定の自然物を依代(よりしろ)としてそこに降臨するものと考えられた。

45
美しい自然をもつ日本において、日本人はその起源とどうじに「自然」に美を見いだしたといってよいだろう。また、その優しさ、美しさゆえに自然を神にまで崇めたのであった。


幽玄
76
夢幻能は死者、あるいはもののけが登場する・・・「死に手」であるシテ」が自ら没した無念の気持ちを語り、それを旅の僧侶である
ワキが聞き届けるという鎮魂のストーリーである。

85
つまり「もののあわれ」とは時間的に限りある美をいとおしく思う心をさす
90
「幽玄」という言葉は・・・中国の思想家老子が「道」を「玄之又玄」として、永遠であり無であることを説いたことにあるという・・・・まず幽玄の「幽」の語は「幽界のことで、あの世のことを指していると見られる、また「玄」は「玄関」の入り口をさしていると思われる。つまり幽玄とは幽界の入り口であるということが可能であろう。

余情
92
いまだ未あるべき能には、心中に控えて、さおみに揉まで、心七分動を心得てなおなお奥を残すようにすべし。

つまり、完全に演じきってしまうのではなく、身体の動作を七分に控えることによって、そこに心が表現できるというのである。
こうした「せぬひま」は日本の芸能全体に見られるものである。

 日本特有かどうかは、わからないが、中国人や韓国人をみると似ているようでここいら随分違うと思う。ぎゃああ、ぎゃああ、わめきたてれば伝わるというものではない。抑えた表現だからこそ、伝わる。泣きわめいてしまっては伝わらないものがある。普通の顔して普通の声でしゃべっていて、ふと目に涙。沈黙ー間・・・そこに形にならない悲しみが伝わる。


 日本庭園においても「死」がちりばめられているとは、知らんかった。
97・・・墓石を眺めることは「死」を見つめることである。・・・・夢窓以降、枯山水の石組には墓石を用いられることが正式とされた感がある。

もっとも、私はこの著者の無のとらえ方に多少違和感がある。
96・・・・ひとたび滅びつきて「無」となったものは、二度と滅びることはない。滅びつきたものはまさに永遠不滅である。

少なくともこれは仏教の不生不滅観ではない。

わび
108
侘とは物足らずして一切我が意に任せず蹉跎(さだ)[挫折]する意なり。

其不自由なるも不自由なりとおもふ念を不生、不足も不足の念を起こさず、不調も不調の念を抱かぬを、侘なりと心得べきなり

うらびらた境遇においてかえって喜びをみいだそうという積極的な意味に用いられている

なるほど、侘びとはそういうことか。そういった挫折や不遇から距離をおいた視点を確保したのである。
かわいさ
133・・かわいいとは語源が「かわいそう」であり、同情を誘い保護したくなる美であるといわれる

女性がわりにそれほどきれいではない友達を「かわいい」とよぶ理由がわかったような気もする。

あまり、本題とは関係ないが・・・

199
人間は自然を作った神の代理人であってキリスト教社会では自然は人間に支配されるべき存在とみなされていたのである。


201
高瀬弘一氏によれば、キリスト教宣教師は軍事計画をもっていたという(「イエズス会と日本」一六世紀の大航海時代というのは表面的にはキリスト教布教が目的とうことになっているが、実際は宣教師が布教して大半を入信させた後、軍隊が攻め入り、征服して植民地にすることが目的であったという

207
釈迦の場合・・・自然死→悲しみ→諦め→微笑みということになり慈悲が根本・・・・イエスの死のプロセスは、殺人→絶望→怒り→復讐→審判ということになり「正義」が根本になっている」

おおざっぱすぎるが、なんとなく説得力がある。

で、まとめとして
「幽玄」にしろ「侘び」にしろ・・・そこには「未完の美」という側面があった。・・・・・
なぜなら「未完」であるということは、すなわち「永遠不滅」が保障されているからであった

214
二〇〇七年、ベルギーである興味深い映画がつくられた、「フランダースの犬」の検証映画である・・・・
「日本人は信義や友情のために敗北や挫折を受け入れることに、ある種の崇高さを見いだす。ネロの死に方はまさに日本人の価値観を体現するもの」と結論づけた、という。

ここいらは、特攻に美を感じる心とも連なってくる。
因みにアメリカ版は「フランダースの犬」を、ハッピーエンドに改作してしまうそうである。

 著者は、現代の日本人の若者のアニメなどの「かわいさ」の中に古代日本人と連なる未完の美、不完全の美をみる。そういった面もあろうが、しかし、「かわいさ」には、「死」の意識が欠ける。死を遠ざけてしまっては、古人がそれを通じてみてきた美をとりのがしてしまう。
15
願わくは花のもとにて春しなむ 
 そのささらぎの望月のころ(西行)

225
桜は散るから美しい。西行は桜がはらはら散る下で死にたい、と歌に詠んで旅立った
紅葉は桜と同じ散るから美しい。赤く色づき燃え上がったかと思うと朽ちて落葉し、凍てつく冬を迎える。そこに人々は死をイメージする。・・・秋の真紅の西日によってまるで血を流したような紅葉に、西方浄土を重ね合わせたのではないか?

かわいくないけど、美しい。

 この手の日本人の情感をあつかたものとして、竹内整一氏の「はかなさ」と日本人がある。これは傑作・名作である。なぜ、世間でもっと評価されないのか不思議だ。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。