まほろば自然博物館

つれづれに、瀬戸のまほろばから自然の様子や民俗・歴史や見聞きしたおはなしをしたいと思います。

菜の花に 微笑む風が ついてくる

2017年02月27日 | お役目ごくろうさまであらっしゃいます。

 さぬき市地方は高気圧に覆われて晴れていた。気温は4.6度から9.8度、湿度は82%から59%、風は2mから3mの北東の風が冷たかった。明日の28日は、引き続き高気圧に覆われて晴れる見込みらしい。

 

 今日は、またしても神戸に向かって、奥方と高速バスに乗って走っている。というのも、奥方のけいこばぁのお兄ちゃんはすでにさぬき市に移住させている。今度は、その奥方、つまり、義姉をさぬき市に引き取る手続きのためである。

 

 私は、右目の白内障が進んできたために、車で高速道は走るのがこわい・・。そこで、今回は高速バスで神戸に向かうことになった。朝の7時半過ぎに我が家を出て、高速津田を8時過ぎに乗り、9時半に高速舞子に着いた。

 

 そこから、JR舞子駅からJR兵庫駅まで電車に乗り、奥方は垂水から名谷にある施設に向かい、移転手続きをするために向かった。私は、市営住宅の引き渡しのための手続き。

 

 駅から、この市営住宅までは徒歩で20分ほど。あの阪神淡路大震災の後、すっかりと街は変わってしまっている。私が20歳代を過ごした思い出はどこにもない。

 

 指定業者さんに引き渡しの見積もりをしてもらう役目。こうした畳やふすまなどは交換する契約になっているとか。そのほかに、タンスや冷蔵庫や不要な布団や衣類などの廃棄処分の依頼。これは10分ほどで済んだ。見積書は義兄のところに送られてくる。家の鍵も引き渡した。

 

 テーブルや不要品なども廃棄してもらうことにした。もったいないが、狭い介護施設ではどうしようもない。当面、必要なものや使えるものは先にトラックで運んでもらっている。

 

 その私が20歳代前半を過ごした「兵庫電話局」。建物はそのまま残っている。中は子会社が入って、見たような制服の社員が働いていた。この屋上にアマチュア無線のアンテナを上げて交信していたことから、義兄やけいこばぁとのつながりができた所。

 

 JR兵庫駅で奥方と待ち合わせ、その近くの中華料理店「芳仙閣」で昼食。

 

 マーボー豆腐が辛くて辛くて、生ビールをおかわりした。

 

 その後、兵庫区役所で義姉の転出手続き。義兄の時のように、国保だとか年金だとか介護保険だのの手続きには時間がかかった。

 

 こちらは、簡単に処理できたのだが・・・

 

 こちらでは、何カ所も席を変えて手続きして、それでも13時半には手続きも終わって帰れることに。

 

 今日の行程はこの往復。片道1時間半。15時半の高速バスに乗り、我が家には17時前に戻ってきた。

 

  今日の掲示板はこれ。「ふりつもる み雪にたへていろかえぬ 松ぞををしき 人もかくあれ」という昭和天皇のお歌から。国敗れ、まさしく山河だけが残ったのが昭和20年夏。わが国の姿であったそうで、食うや食わずの暮らしに始まる7年の歳月は、わが国の長い歴史に訪れた、初めての、そして、最も深い断絶であり、試練であったという。そのころのことを、亡き昭和天皇は、このように歌にしておられた。「ふりつもるみ雪にたえていろかえぬ松ぞををしき人もかくあれ」。雪は、静謐のなか、ただしんしんと降り積もる。松の枝は、雪の重みに、いましもたわまんばかりになりながら、じっと我慢をしている。我慢をしながら、しかしそこだけ目にも鮮やかに、緑の色を留めている。わたしたちもまた、そのようでありたいものだという御製である。昭和21年の正月、日本国民の多くが、飢餓線上にあえぎつつ、最も厳しい冬を、ひたすらしのごうとしていた時に、詠まれたものであるという。

 

じゃぁ、また、明日、会えたらいいね。


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