まほろば自然博物館

つれづれに、瀬戸のまほろばから自然の様子や民俗・歴史や見聞きしたおはなしをしたいと思います。

豆まきは こんな淋しいものなのか

2016年01月31日 | 自由律俳句

 さぬき市地方は高気圧に覆われて概ね晴れていた。まるで春がやってきたかのような天候になったが、気圧の谷の影響で夜には雲が広がり、雨や雪の降る所があるらしい。気温は4度から10度、湿度は80%から62%、風は1mから3mの西の風が少しばかり。明日の2月1日は、気圧の谷や寒気の影響で、雲が広がる見込みらしい。

 

 いつものように、朝のルーティーンをこなしておいてから、天気がいいので二階のお掃除をやってみた。

 

 おこたを外して布団や敷物を干しながら・・・。

 

 掃除機をかけて綿ぼこりを吸い込んで・・・。どこから、あの綿ぼこりは湧いて出てくるものなんだろう・・・。吸い込んでも吸い込んでも、いつのまにか湧いて出て来る。

 

 で、午前中は、例の田淵家の納め札についての論文作成・・・。これは、どこに提出するものでもなく、どこかに頼まれたものでもない。単なる私の研究としての論文である。ま、一冊の本にはなるだろう。で、県立図書館あたりには納品できるだろう。

 

 昨年秋かに、国立国会図書館から「納本せよ」と言うてきたのだが、納本をしてもハガキ一枚もよこさないし、着いたとも連絡が来なかったので、今後は一切、納本しないことに決めた。私の本など、国会に置くような本ではないのは明白なのに・・・。

 

 この時期になると、このお話。自由律俳人の「住宅(すみたく)顕信」の「未完成」という句集である。 住宅顕信は、本名・住宅春美(すみたく はるみ)。岡山県岡山市に生まれた。岡山市立石井中学校卒業。1976年4月、岡山市内の下田学園調理師学校に入学。同時に就職し、昼は勤務し夜は通学という生活に入る。4歳年上の女性と知り合い、同棲を始める。この頃より詩、宗教書、哲学書に親しんだ。

 

 1978年3月、下田学園卒業。1980年、父親の勤務先である岡山市役所に臨時職員で採用され、清掃の仕事に従事。仏教にに傾倒し、1982年9月より、中央仏教学院の通信教育を受講。翌1983年4月、教育課程修了。7月、西本願寺にて得度。浄土真宗本願寺派の僧侶となり、法名を釋顕信と名告る。10月、同棲相手と結婚。両親の援助により自宅の一部を改造して仏間をつくり、浄土真宗の根本経典「無量寿経」に因み、無量寿庵と名付けた。

 

 1984年2月、急性骨髄性白血病を発病し岡山市民病院に入院。6月、長男誕生。不治の病の夫に対して妻の実家の希望により離婚。長男は顕信が引き取り、病室にて育てる。10月、自由律俳句雑誌「層雲」の誌友となり、層雲社事務室の池田実吉に師事。この頃より自由律俳句に傾倒し、句作に励むようになる。特に尾崎放哉に心酔した。1985年に句集『試作帳』を自費出版。「層雲」の権威主義的な疑念を感じ、「層雲」の元編集者である藤本一幸が主宰する自由律俳句誌「海市」に参加する。翌1986年、「海市」編集同人となる。病状が悪化し、この年の12月からは代筆によらなければ投書できなくなる。1987年2月7日23時23分、還浄。享年25。俳人としての創作期間はわずか3年で、生涯に残した俳句は281句だった。(Wikipediaより)

 

 住宅顕信の人生も俳句もまた、「未完成」のままに終わってしまった。南無阿弥陀仏に出会った人生。彼の人生は「むなしくはなかった」のだろうか・・・。

 

 二月が来ると、なぜか、この夭折してしまった自由律俳人、「住宅顕信」のことが思い出されて仕方がない。

 

 今日の掲示板はこれ。「鬼とは私のことか 豆がまかれる」という住宅顕信の俳句から。いつもお世話になっている赤松先生のお寺の掲示板にあったもの。もうすぐ節分。冬と春の分かれ目ということで、暦の上では春になるころである。節分といえば豆まきであるが、豆まきを題材にした俳句を取り上げた時期らしいことばである。「鬼とは私のことか豆がまかれる」 ことばと言っても、これは自由律俳句。荻原井泉水、尾崎放哉、種田山頭火などの流れを汲むもので、「住宅顕信」さんは1987年に25歳の若さで急性骨髄性白血病で亡くなった俳人だ。この句にも、作者のそうした悲しい背景が忍び込んでいるように感じられるのだけれど。

 

じゃぁ、また、明日、会えたらいいね。

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コスモスひっそりと 咲いている

2014年10月10日 | 自由律俳句

 さぬき市地方は高気圧に覆われておおむね晴れていたが、夕方からは雲が広がってきた。気温は18度から26度、湿度は90%から59%、風は2mの北北東の風が少しばかり。明日の11日も今日と同じような天候になるらしい。

 

 ふと、机の上を見れば、返却し忘れている本があるのに気がついた。そこでまたもや香川県立図書館にやってきたというわけ。

 

 次第にアキニレの葉っぱが紅葉を始めている。はらはらと落ちる葉っぱをおじさん数人が掃き集めているが、掃いても掃いても落ち葉は落ちる。それでもおじさんたちは掃いては掃いては掃き集めている。

 

 で、今日は「山頭火」についての本を探してみた。すると・・・。

 

 こんな本があった。なんと全国にある「山頭火」の句碑ばかりを集めた本である。総合計で921基もある。香川県には101基もあって、さぬき市内に65基あるらしい。この田原さんという人が全国を歩いて集めた写真集なんだろう。すごいことだ。

 

 こんな感じで建てた人、揮毫した人、寸法まで入っている。さぬき市の「山頭火顕彰会」発行の句碑集に入っていないものまで載っているのだからすごい。またまた、歩き直さないといけなくなった。当然、顕彰会の句碑集に載っていても、この本に載っていないものもある訳だ。

 

 早速に、私のリストにないものをスキャニングしてデータを電子化しておく。文章もテキスト化しておく。

 

 でもだ。山頭火って、どこが良くてここまでもてはやされているのだろうか。

 

 マンホールの蓋だって、何種類もあるし、テレビドラマにもなったし、俳句集は山ほど発行されている。俳句たって、こんなもの、私が作ったら、「あんたはアホか・・・」と言われるのがオチだ。

 

 で、ものはついでだと、昨日の写真の場所、地獄谷に寄ってみた。でも、何の手がかりも見つからなかった。

 

 で、今日の句碑集の該当の部分には、「大窪寺南面の旧遍路道の丁石、石仏のある幻の山頭火みち。赤松家の奥ゆらぎ石の手前、山頭火顕彰会会員の案内が必要」とある。そんな難しい場所に建てなくてもいいやんか・・と思ってしまう。なんのための句碑なんやろうか・・と思ったことだった。しかしのかかし、そのあたりに「赤松家」という家はないのだけれど・・・。

 

 おかげで、今日もお昼を食べそこなってしまった。

 

 このあたりはサルがいないのだろうか、カキやクリがそのままである。田んぼの周囲にはネットが張ってあるので、イノシシの襲来はあるみたい。

 

 そんなこんなで、今日もばたばたと暮れてしまったことだった。

 

 今日の掲示板はこれ。人は「昨日にこだわり 明日を夢見て 今日を忘れる」というもの。真宗大谷派の本多恵先生のお言葉である。過ぎ去った過去にこだわってばかりいて、あるいは明日ばかりを夢見てあこがれ、今なす事を忘れては何もならないということ。過ぎ去った過去は捨ててしまい、まだ来たらずの明日を夢見てばかりでは今がおぼつかない。要は、今の自分を、どう、生ききるか・・・という一点に尽きるというものだ・・・。

 

じゃぁ、また、明日、会えるといいね。

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いいことが あるかもしれぬ 葉桜になった

2013年04月03日 | 自由律俳句

 さぬき市地方は高気圧に覆われて香川県西部を中心に概ね晴れているが、寒気の影響で東部では雲の広がっている時間帯があった。気温は11度から15度だったが、風が5mから7mの西北西のやや強い風の影響で体感的には寒かった。

 

 警察犬きな子は6年連続で試験に落ち、ドジぶりがかわいいと人気を呼び映画化されたが、7回目の挑戦でトップの成績を収め、嘱託警察犬になった。その嘱託警察犬「きな子」の娘の「こむぎ」が11日、高松市で開かれた県警の委嘱式に出席した。こむぎは、嘱託期間を終えて3月に引退するきな子の後を継ぎ、4月から嘱託警察犬になる。

 

 そこで、きな子は、「まだまだ現役で頑張るワン―。」と、3月末まで香川県警の嘱託警察犬を務め、娘にバトンタッチした「きな子」が3日、2013年度も県広報誌の特派員に任命された。きな子は緑色の県のマークが入った黄色の衣装で登場し、浜田恵造県知事から取材グッズを受け取った。

 

 昨年4月からの特派員の“活動”は2年目に入り、月刊の広報誌で県内の歴史や風景などを紹介するコーナーの「取材と紹介役」として登場。県公式サイトで取材風景の動画も閲覧できる。

 

 さて、今日も文房具を探してうろうろとしていたが、さすがにこれという欲しいものも見つからない。製図をすることもないし、マンガを書く腕もないし、小説を書く創造力もないし・・・。

 

 で、今日のお昼はココになった。東かがわ市白鳥(しろとり)にある「讃州うどん・ほそかわ」という一般店。

 

 ここもお昼時には行列のできるお店で、おすすめは「ぶっかけうどん」。それもちくわの磯辺揚げを乗せて食べる「磯ぶっかけ」は小で450円。

 

 この店主おすすめの「ぶっ天うどん」というネーミングが笑ってしまうが、天ぷらうどんにぶっかけ出汁をかけたもの。

 

 これがその「磯ぶっかけ」うどんで、普通の麺に磯辺揚げを載せて、左の容器に入っている「特製ぶかっけ出汁」を味を調整しながらかけてゆく。一気に全部掛けると、少し辛いかも・・・。

 

 このつつじ、あちこちの山で見かけることがおおくなった。これも四月の終わりから五月のものと思っていたのだが、最近はこれがよく目立つころとなった。

 

 山ではタラの芽も少しずつだが伸び出してきた。もう、そろそろ、天ぷらにできる時期になる。

 

 田んぼでは田植えの準備がはじまっているし・・・。いよいよ春本番かなぁと思ったら、今日のこの寒さだ・・・。思わず・・・ブルブルブル・・・。

 

 今日の掲示板はこれ・・・。「降る雨も 人の心も 片寄らぬが良い」というもの。これも、どこのどなたかの言葉かは明らかではない。ただ、「そうだなぁ・・」とうなずくしかない。

 

じゃぁ、また、明日、会えるといいね。

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飲み忘れた 薬片手に 銀杏の木の下

2011年11月20日 | 自由律俳句

 夜中は暖かくて・・・布団を蹴っ飛ばして寝ていたが、朝方の散歩は肌寒い冷たい朝になった・・・。

 今日は・・・毎月二十日ということで、さぬき市からの広報ほかが運ばれてくるので、それを戸別に分けて・・・各家庭に配る。そのついでに・・・自治会費(ほとんどが自治会堂の建築借入金の返済)の集金・・・。

 

 こうした・・・広報誌を配っていくわけだが、今日は日曜日。やはり、配布は夕方から夜になる。その間、レキ墓問題とか、来春のお大師まいりの資料の印刷なんぞをやっていた・・。

 

 孫のはやてちゃんと一緒に・・秋探しのドライブに出た・・・。朝昼兼用のおうどん紀行も兼ねていて・・・。さぬき市から・・・東かがわ市五名(ごみょう)地区を経て・・・。

 

 徳島県との境目にある・・・「境目:さかいめ」というバス停近くにある大銀杏。「いちょうはん」と呼ばれるもの・・・。

 

 このあたりでは・・・けっこう有名な古木なんだが、全国区ではないな。でも、ほら・・・まだ・・緑の葉っぱが残っているのに、先端部がはだかんぼうになっている・・・。

 そこから・・・すこしばかり走ると・・・四国霊場八十八番札所の大窪寺に着く。今日は天気が良かったものでお遍路さんも多かった・・・。

 

 二人は・・・まずは腹ごしらえということで、朝昼兼用のおうどん・・。はやてちゃんが「では、打ち込みうどんを・・・」などといっぱしの口調で・・・。

 

 大窪寺門前の「八十八庵:やそばあん」のイチ押しうどんがこれだ。ごつごつとした野菜や肉なんぞを煮込んだ田舎料理風のおうどん・・・。一人分では味気ないが、数人分にもなると、これがたまらない・・・。お出汁の最後まで食べてしまいたくなるお出汁だ・・・。

 

 最初はこうした上品なものだけれど・・・。このお鍋の中からおわんに食べるだけを移して、木のしゃくしでお出汁を注いで食べる・・・。

 

 11時前だったが店内は七割方が埋まっていた・・・。お遍路さんよりも普通の服装の方が多いなぁと思った・・・。ま、バスで来られたお遍路さんがここに入るのは見たことがない。時間的に無理なのかも知れない・・・。個人的にマイカーなどのお遍路さんだと数人だから・・・おうどんをゆがいても出しても・・・負担にはならないのかも・・・。

 

 打ち込みうどんは800円。それを二人前だと1600円。讃岐にしては高いおうどんではあるね。でも、オンリーワンのおうどんだから仕方がないか・・・。

 

 いつものアングルで撮った紅葉・・・。少しばかり・・・赤みがさしてきたかな・・。そして、その先の紅葉は・・・。

 

 自然は正直だね・・・。先日はまだまだ・・・緑だったのにね・・・。

 

 「じぃじ・・・、お参りはせんの?」というまごの声で・・・本堂にお参りしてきたが、よそ様の会社の本店に行く感じで・・・あんまり・・・ありがたみはないし、そちらの営業成績ばかりが気になるし・・・。

 

 ここのイチョウも散ってしまったことだった・・・。

じゃぁ、また、明日、会えるといいね。

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爪切りがよく切れる 朝の沈丁花

2011年03月13日 | 自由律俳句

 東北地方太平洋沖地震によって多数の方々がお亡くなりになり、また、多くの方々が被災し、今も孤立状態にある多数の方がおいでになると聞いておりますし、今も避難先で食料も水もない状態の方々がおいでになるようです。こころから・・お見舞い申し上げます。

 災害用伝言ダイヤル「171」  

   ポチッとしてください.

  で、ご案内の通り・・、今日は・・シイタケの植菌(しょくきん)をやってみた・・。子供の頃には・・・楽しくて面白いお仕事だったけれど、おとなになると、山から木を切って、山出しとか・・・玉切りとか・・という実際の作業になると・・・重荷になった・・。

 

 このあたりでは・・クヌギの木を使う。太さは・・持ちやすく、作業しやすいように・・・あんまり太くないほうがいいが、細いと・・耐用年数が短いのですぐに腐ってしまう。だから・・直径が10センチから20センチくらいのまっすぐな部分がいいと思う・・。玉切りする長さは・・およそ・・1m。持ちやすくて運びやすいものがいい・・。重すぎる物や曲がったものは運搬に困る・・。

 

 これに、およそ・・直径9ミリの穴を開ける。深さは菌種にも寄るのだろうけれど、この駒菌の場合には3Cmほど。プロ用には、長さをセットされていて、深さ一定のドリル刃があるが、うちの場合は汎用性を考えて短いドリルを使った・・。

 

 で、こんな具合に・・横には・・20センチ、上下は5センチくらいにドリルで穴を開ける。これを「穿孔:せんこう」という。この木材を切ることを「玉切り」といい、切った部材を「原木」とか「ほだ木」という。穴の径は9ミリ。深さは3センチ。

 

 こんな感じで・・・先が9ミリ、上部が10ミリ程度の丸い木栓を穴に押し込んで、金槌でたたき込む。穴が9ミリにに10ミリほどの栓をたたき込むイメージ。これで穴を密閉して雑菌が入らないようにし、また、原木の乾燥を防ぐものらしい・・。前には・・「封蝋」というものを塗ったり、発泡スチロールの丸いふたをしたものだが、そういうものをしなくてもいいそうだ。

 

 これを・・まごのはやてちゃんが打ち込んでいる・・。

 で、はやてちゃんも午前中には帰ってしまい・・私ら家族三人だけになって、徳島のお寿司屋さんへいこう、勝浦のひな人形を見に行こう・・どこそこのうどん屋さんに行こう・・・というプランはことごとく破棄されてしまって・・。「残り物でお昼を食べよう」ということになった・・。

 で、私だけが・・・ここのおうどん屋さんに行った・・。

 

 ここも・・・久々だなぁと思うような・・・我が町の・・・「さぬき市大川町」にある・・「手打ちうどん・すぎもと」。セルフのお店で・・・シンプルなうどん屋さん・・。

 

 で、かけうどん小(180円)+揚げ(100円)=280円というささやかな昼食・・・。今日は奥方がお休みだったから、朝ご飯がしっかりとあったからね・・。

 

 時期的に・・こういう・・お雛さんのお人形が・・・。毎年のことなんだけれども・・。

 

 我が家にある・・白い沈丁花・・・。赤い物はなぜか・・姿が見えなくなった・・・。

 「じんちょうげ・・・じんちょうげ~~・・・」と口ずさんでいたらば、「びでおちゃん、それは、ほうせんか、ほうせんか~~でしょ!」と言われた・・・。ああ~あ・・、いよいよ・・認知症が進行してきたかねぇ・・・。

 

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じゃぁ、また、明日、会えるといいね・・。

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晴れだしてきた 山の春風

2011年03月02日 | 自由律俳句

 いよいよ三月になった・・・。だからどうだというわけではないが、気分一新してみたいところ。

 私のブログのプロフィール欄に・・「自由できままなお坊さん。今日は西やら東やら。尾崎放哉か山頭火みたいになりたいもの。 」ということが書いてある。そして・・ブログのタイトルには・・妙な言葉が書いてある。俳句のような標語のような・・・川柳のような・・。

 ということで、今日は特別寄稿ということで、この言葉の意味などを紹介しておこう・・・。

 

 種田山頭火(たねだ さんとうか)は、明治15年(1882)に生まれ、昭和15年(1940)に没した俳人で、よく山頭火と呼ばれる。自由律俳句のもっとも著名な俳人の一人。1925年に熊本市の曹洞宗報恩寺で出家得度して耕畝(こうほ)と改名した。本名は種田正一。

 なんだかんだとあったが、明治44年、荻原井泉水の主宰する自由律俳誌『層雲』に寄稿し、大正2年に井泉水の門下となる。大正5年には、『層雲』の選者にも参加した。その後、家業の造り酒屋が父親の放蕩と自身の酒癖のため破産し、妻子を連れて熊本に移住した。その後、弟と父親は自殺した。生活苦から自殺未遂をおこしたところを市内の報恩禅寺(千体佛)住職・望月義庵に助けられ寺男となった。大正14年に得度し「耕畝」と改名した。

 

 大正15年に寺を出て雲水姿で西日本を中心に旅し句作を行ない、旅先から『層雲』に投稿を続けた。昭和7年、郷里山口の小郡町に「其中庵」を結庵したが、再びさすらいの後、昭和14年に松山市に移住し「一草庵」を結庵。翌年、この庵で生涯を閉じた。享年57。

 

 自由律俳句の代表として、同じ井泉水門下の尾崎放哉と並び称される。山頭火、放哉ともに酒癖によって身を持ち崩し、師である井泉水や支持者の援助によって生計を立てていたところは似通っている。しかし、その作風は対照的で、「静」の放哉に対し山頭火の句は「動」である。

 代表句には次のようなものがある・・。

 

  • 酔うてこほろぎと寝ていたよ
  • 鴉啼いてわたしも一人
  • 鈴をふりふりお四国の土になるべく
  • 霧島は霧にかくれて赤とんぼ
  • まつすぐな道でさみしい
  • また見ることもない山が遠ざかる
  • 分け入つても分け入つても青い山
  • 鉄鉢の中へも霰
  • 生死の中の雪ふりしきる
  • おちついて死ねそうな草萌ゆる

 

  一方、尾崎放哉(おざき ほうさい)は、本名: 尾崎 秀雄(おざき ひでお)、明治18年(1885)に生まれ、大正15年に没した俳人。

 

 尾崎は鳥取県邑美郡吉方町(現在の鳥取市吉方町に鳥取地方裁判所の書記官・尾崎信三の次男として生まれる。翌年一家は法美郡立川町へ転居。 鳥取県立第一中学校から東京帝国大学入学。いとこの沢芳衞に求婚、親類の反対のため断念。 東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。通信社に入社後、 東洋生命保険株式会社に就職。契約課に所属。その後・・・いろいろとあって・・ 「層雲」への寄稿を再開する。罷免されて、満州に赴き再起を期すも肋膜炎悪化のため入院、手記「無量寿仏」を妻に口述筆記させる。一燈園に暮らしたことも。

 

 知恩院塔頭常称院の寺男となるが、寺の紛争に巻き込まれ、須磨寺大師堂に住み込む。その後、福井県の小浜常高寺の寺男となるが、ここも追われ、荻原井泉水の紹介で小豆島霊場の第五十八番札所西光寺奥の院・南郷庵(みなんごあん)に入る。大正15年4月7日、南郷庵に死す。死因は癒着性肋膜炎湿性咽喉カタル。戒名大空放哉居士。

 

 季語を含めない自由律俳句の代表的俳人として山頭火と並び称される。旅を続けて句を詠んだの山頭火に対し、放哉の作風はのなかに無常観と諧謔性、そして洒脱味に裏打ちされた俳句を作った。性格は偏向的であり、自身が東京帝国大学法学部を出ていながら、他の法学部卒業生を嫌うという矛盾的性格を持ち、また酒を飲むとよく暴れ、周囲を困らせたという。唯一の句集として、死後、荻原井泉水編『大空〔たいくう〕』(春秋社、1926年6月)が刊行された。

 代表句には次のようなものがある。

  • 咳をしても一人
  • 墓のうらに廻る
  • 足のうら洗えば白くなる
  • 肉がやせてくる太い骨である
  • いれものがない両手でうける
  • 考えごとをしている田螺が歩いている
  • こんなよい月を一人で見て寝る
  • 一人の道が暮れて来た
  • 春の山のうしろから烟が出だした(辞世)

 

 じゃぁ、また、夕方に。

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