ガジ丸が想う沖縄

沖縄の動物、植物、あれこれを紹介します。

しーべぇの消えた夏

2015年08月14日 | ガジ丸のお話

 南の、小さな島(仮にガジ島とする)の、小さな学校。そこは小学校と中学校が一緒になっていて、合わせて30人ちょっとの生徒数でしかない。白い砂浜と青い海がすぐ傍にあり、森があり、野原があり、畑がある自然豊かな環境で、子供達は元気に育つ。
 生徒のほとんどは島の子であったが、小学校3年生の男子1人と小学校1年生の女子1人の2人だけは島の子では無く、この春、内地(倭国のこと)からの転校生。お父さんお母さんの4人で家族ごと島に引っ越してきた。男の子は健太、女の子は沙織という。
 この春島にやってきた人がもう1人いる。新任で小学生の担当となる下地紅子(しもじべにこ)先生。下地先生は東京の大学を卒業して沖縄で教員となり、教員となって2校目の赴任地がガジ島小中学校となった。まだ20代の若い先生、独身の美人。

 下地先生は美人というだけで子供達から好かれた。心も優しかったので、すぐにみんなと仲良くなった。他所から来た健太と沙織も、生活習慣の異なる島、言葉もいくらか異なる島での生活に戸惑いがあったのだが、優しい下地先生がそんな2人に心を配り、2人は程なく島の生活に溶け込み、他の子供たちとも仲良しになった。
 下地先生は美人というだけで男たちから好かれた。独身なので独身男性たちからは羨望の眼差しで見られた。プロポーションも良かったので、好色オジサンたちからは垂涎の的となった。そういったことに慣れている彼女は、言い寄る男たちをさりげなくかわす術も心得ていて、懸想する男供をことごとく退けた。身持ちも固いのであった。
 美人で優しい下地先生は1学期が始まって間もなく子供たちから愛称で呼ばれようになった。「しもじべにこ先生」を略してしーべぇ先生。子供たちだけでなく、島の人皆から親しみを込めてそう呼ばれた。みんな仲良しの平和な時間がしばらく続いた。

 しーべぇ先生、身持ちは固いが、恋愛が嫌いという訳ではけして無い。二十歳前後の頃はむしろオープンであった。過去に数人の男と深い関係になった経験がある。その経験から「そんじょそこらの言い寄る男と付き合っても楽しくない、私にもきっと運命の人がいる、赤い糸で結ばれた人がいる」と確信に近い思いを持っていた。

 夏休みも近付いたある日曜日の朝、しーべぇ先生は家から海岸端へ出て海岸沿いを散歩した。しばらくすると港へ出た。漁港だ。護岸の下にいくつもの漁船が見えた。その向こうには大きな漁船も停泊している。何気なくその大きな船を目指して護岸沿いを歩いていたら、突然、足元に大きな魚が投げ込まれた。驚いて「きゃっ」と声が出た。
 すると、護岸下からいかにも漁師といった日焼けした顔が出て、
 「あー、人がいたのか、悪いね驚かせて。靴でも汚した?」と言い、白い歯を見せた。
 「あっ、いえ、突然だったのでちょっと吃驚しただけです」としーべぇは答え、漁師の顔を見た。かつて、松田聖子が言ったように「ビビッ!」と来た。黒い顔はいかにも島の漁師だが、言葉遣いで島の人では無いと判る。優しそうで思慮深そうなその顔も、知性の豊かそうなその言葉遣いもしーべぇの好みだった。「赤い糸だ」と思った。

 「おー、珍しいなぁ、この島にこんな美人がいたんだ、旅の人?」
 「いえ、この春から・・・」などといった会話を少し交わしたが、しーべぇはその内容をほとんど覚えていない。気が付いたら船の中、小さなベッドの上、男の腕の中。

 男は家庭持ちであった。というだけでなく、しーべぇの教え子である健太と沙織の父親であった。最近、長い遠洋漁業から帰って来たばかりであった。若い美女の潤んだ目に見つめられて、コロッと心を奪われたのであった。禁断の泥沼に入って行った。
 夏休みに入った頃には噂が立った。島の人々から白い目で見られるようになり、しーべぇは島にいられなくなった。学校に辞表を出し、しーべぇは島から消えた。
 その後、駆け落ち、刃傷沙汰、子供達が泣き叫ぶ・・・といった、それはそれはドロドロしたドラマの始まり・・・になりそうだが、妄想はここでお終い。
     
 ウチナーグチ(沖縄語)でシーベーという名の昆虫がいる。和語で言うとキイロショウジョウバエ、コバエホイホイなどで対象とされる、いわゆるコバエ。こいつが私の部屋に年がら年中いる。見つけたら叩き潰しているが、どこから湧いて来るのか知らないが、しばらくするとまた1匹が私の前に姿を見せる。奴がいない日は稀であった。
 ところが、今年の夏、思い返すと梅雨の明けた6月下旬頃から姿を見ていない。何でいなくなったのかと考えると、ただ一つ思い当たることがある。その頃、風呂場兼トイレの排水溝の大掃除をした。そのお陰かな?と思うが、確信は無い。
 「シーベーが消えた夏」、「何で消えたか?」、「戻ってくるか?」などと考えている内に妄想が頭に浮かび、上記のドロドロになりそうな話を思い付いたわけ。

 シーベー、ゴキブリやカに比べるとさほど不快に感じる奴では無いが、食べ物にたかるので煩い奴であった。原因は何であれ、取り敢えず、シーベーがいなくなったのは嬉しいことであった。・・・「あった」と過去形にしたのは、妄想を書いている時(8月8日の夕方)、奴が戻ってきた。私の目の前、机の上、すぐに叩き潰した。
 その後、9日にも1匹見つけ叩き潰したが、それ以降今日(11日)まで奴は姿を見せていない。安心していいのかな?それとも油断させているだけかな?
     

 記:2015.8.11 ガジ丸 →ガジ丸のお話目次


堅物エコロジスト

2015年08月07日 | 通信-環境・自然

 7月9日~10日に台風9号が沖縄島を襲い、その暴風は畑の野菜や果樹に大きな被害を与えたが、9号は大量の雨をもたらし、それまで雨が少なく乾燥気味であった畑も潤った。その後また、雨の降らない日が続いたが、20日~21日に記録的な豪雨が沖縄島を襲い、台風9号よりもずっと多くの雨をもたらし、畑はまたも潤った。
 25日に台風12号が沖縄島北部を襲う。中南部も暴風大雨の予報であったが、風は強風圏止まり、雨はほんのお湿り程度であった。その後、8月2日と昨日6日に、2時間ばかりシトシト雨があったが、それ以外雨は無く、天気は概ね快晴が続いている。
 快晴、字面を見ると爽やかに感じるが、夏の快晴は全然爽やかでは無い。ギラギラの太陽がガンガン照りつける中での肉体労働は激しくきつい。「暑い!糞暑い!」と畑仕事をしながらオジサンは何度も怒鳴ったり呟いたりしいている。「暑い!糞暑い!」と口にしようが、「暑い!糞暑い!」とここに書こうが、暑さが弱まる訳では無いのだが、「暑い!糞暑い!」と言ったり書いたりして、何とか夏を乗り切ろうとしている。

 糞暑いと体の感覚が鈍くなるのか注意散漫になる。あるいは、早く作業を終えようとして注意散漫になる。私は畑仕事で鎌、鋏、ショベルなどを使い、支柱設置で大ハンマーを使い、大工仕事でノコギリなどの手工具を使う。その際、元々慎重さに欠け、冬場でもしばしば傷をこさえる私は、注意散漫となるこの時期、傷だらけとなっている。
 この一週間でもハンマーで左手人差し指の付け根と第二間接辺り、そして、親指の付け根を叩いて打撲、先が割れて尖っている鉄パイプのその先に右手中指の甲を打ち付けて深い切り傷、2~3キロある縁石用の石を左足の甲に落としてそこを打撲している。
 注意散漫なのは「作業中糞暑いから」が一番の原因だと思われるが、もう一つ、沖縄の夏の最低気温はたいてい25度以上の熱帯夜である。ここ数日は27度が続いている。最低気温はたいてい明け方で、寝る前の時刻(夜9時~10時頃)は30度を超えている。そんな中私は、クーラーを使わず、窓を開け、扇風機で暑さを凌いでいる。
 扇風機の風だけでは30度の温度を快適な気温まで下げることはできないようで、寝ている私は常に暑さを感じ、そのせいでぐっすり眠れていない。暑さで夜中目を覚ますこともたびたびあり、目覚ましが鳴る5時前にはたいてい起きている。寝不足だ。この寝不足がじわじわと私の体力を奪い、作業中の注意力を奪っているのかもしれない。
          

 クーラーを使わないで我慢している人を「堅物エコロジスト」とエコロジストをバカにしているようなコマーシャルがラジオから流れる。クーラーを使わないで我慢している私は、「あー、エコロジストは堅物であるとバカにされているんだなぁ」と思いつつも、それでもクーラーのスイッチをオンにしない。クーラーを我慢して地球温暖化緩和に寄与しようなんて思っている訳ではちっとも無い。お金の問題と、体の免疫力の問題。
 お金の問題は、御存じの通り私は貧乏なので生活費を少しでも削減しようと思って。体の免疫力の問題とは、私が考えるに、クーラーの無かった頃、遠い昔では無い、私が子供の頃家にクーラーは無かった。昔はウチナーンチュのほとんどがクーラー無しで生きてきた。それでも元気で長生きだった。暑さは、体がそれなりに対処する術を元々持っているのだと思う。クーラーはその術を失くしてしまうのではないかと思って・・・。
          

 記:2015.8.7 島乃ガジ丸