礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

「僕も見たヨ、確かにこれだヨ」谷正之情報局総裁

2017-06-28 06:30:23 | コラムと名言

◎「僕も見たヨ、確かにこれだヨ」谷正之情報局総裁

 昨日の続きである。松村秀逸『大本営発表』(日本週報社、一九五二)から、「ドウリットルの空襲」の節を紹介している。本日は、その二回目(最後)。
 昨日、紹介した箇所のあと、改行して、次のように続く。

 家は健在だつた。すぐ裏の方が二、三十軒やられている。家の中は荷物を二階から玄関におろしてゴッタ返していた。消防自動車が十台近くも集まつてどうやら消し止めたらしい。
 家内も女中も、まだ荷物の片付けに大童〈オオワラワ〉だった。
「どうした」
「いや驚きましたヨ、騎兵隊の方から飛行機がやつて来ましてネ、ちょうどお隣りの坊つちやんと門の前に立つていたんですヨ。操縦士も見える位の低さでした。日本のでしようか、アメリカのでしようかと言つている間に、何か黒いものを落したと思つたらすぐ裏手の方から、ドット煙が上つたのですヨ」
「二階の物干〈モノホシ〉だと思つたので、すぐ電話にとびついてお知らせしたのですヨ。ああ驚いた。焼夷弾というのは怖ろしいものですネ」
 妻と女中は、こもこも説明してくれた。まだ興奮からさめていない。ホンの一発でこれだけの損害を受けるようでは大変だと思つた。
 飛行機は自重十三トンもあるノース・アメリカンB-25であつた。どうも六百五十浬のところで離艦【りかん】したらしい。飛行機は片飛行【かたひこう】で母艦に帰らず中国に通りぬけてしまつた。母艦は飛行機を放すと同時に、東に反転して帰港の途についた。ここまでは日本海軍も考え及ばなかつたのである。
 その日のY新聞の夕刊には、空襲機の写真が出ていた。情報局総裁の谷〔正之〕さんは、その新聞をひろげて「僕も見たヨ、確かにこれだヨ」との話だつたが、三版、四版となると飛行機の後の方に高射砲の爆煙が四つ五つ並んでいた。
 陸軍の航空本部では、その写真が欲しいので、Y社に電話をかけて、アメリカ機の写真を見せてもらいたいと申し込んだ。何時まで経つても、持って来ないので、再三問い合せると「今どこに行つたか見当らない」という返事で、とうとう持つてこなかつた。新聞に出た飛行機は本社屋上からうつすと銘打【めいう】つてはあつたが、実は日本海軍機の写真であつた。不意をくらつて、慌てた日本はドウリットル機をフイルムにおさめることすら出来なかつたのである。
 B-25十六機を銚子東方六百浬で放したホーネットとエンタープライスは、さつさと東航、飛行機は日本爆撃後西にとんで、華中の飛行場に着陸したのである。
 とにかく、ドウリットル空襲の影響は、谷荻〈ヤハギ〉〔那華雄〕報道部長が放送したリットルでもナッスィングでもなく重大なるものがあつた。これがため大陸では華中飛行場の攻略戦が始まつた。いわゆる浙贛【せつかん】作戦である。太平洋では山本〔五十六〕連合艦隊司令長官が主張したミッドウェー攻略戦の実施を決定的なものとしたのである。

 文中、「Y新聞」とあるのは、読売新聞のことであろう。当日のY新聞に載った「アメリカ機」というのは、実は、日本海軍機であったという。要するに、捏造写真だったわけである。その捏造写真を見て、当時の情報局総裁・谷正之が、「僕も見たヨ、確かにこれだヨ」と言ったらしいが、いかにも、お粗末な話である。
 しかし、もっとお粗末なのは、陸軍の航空本部が、空襲機を写真に収めておらず、Y社に電話して、写真を要求したという一件である。
 また、ドウリットル奇襲作戦について、松村秀逸は、「ここまでは日本海軍も考え及ばなかつた」と述べている。松村秀逸は、陸軍軍人として、こういう感想を述べているわけだが、何とも無責任な感想である。
 もし、感想を述べるとすれば、海軍の航空母艦から陸軍の爆撃機を離艦させるなどというのは、日本の軍人に思いつかない発想であり、もし思いついたとしても、実現は、事実上、不可能だったろう、といった感想を、反省の念とともに述べるべきだったと思う。

*このブログの人気記事 2017・6・28(10位にきわめて珍しいものが入っています)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする