礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

敵機は一機も撃墜できなかったと上奏

2017-06-29 05:55:48 | コラムと名言

◎敵機は一機も撃墜できなかったと上奏

 たまたま、東久邇宮稔彦著『一皇族の戦争日記』(日本週報社、一九五二)という本を手にしたので、「ドウリットル空襲」関係のところ(一九四二年四月)を読んでみた。
 次のようにあった。なお、東久邇宮稔彦王(ひがしくにのみや・なるひこおう)は、ドウリットル空襲時、陸軍大将、防衛総司令部総司令官、軍事参議官であった。

  初 空 襲 に 狼 狽 す る 大 本 営

 四月十八日(土)
 午前八時すぎ、小林〔浅三郎〕総参謀長から電話があり、「今朝、六時,犬吠岬沖六百哩〔ママ〕付近にて、わが海軍の哨戒船二隻が敵航空母艦を発見し、敵軍艦および航空機より攻撃をうけた。よつて八時半、警戒警報を発することにした」
 十時、防衛総司令部に出勤、総参謀長から詳しい状況をきく。
 十二時二十五分、敵大型機数機が来襲し、市内数カ所に爆弾、焼夷弾を投下した。わが高射砲、防空航空隊はこれに応戦した。
 私は昼食を終り、自室にもどり休憩中、大型飛行機がきわめて低く飛ぶのをみた。
 今朝、警戒警報発令以来、一般航空機の飛行を禁止してあるので、変だなと思つていたところ、高空に高射砲弾が破裂し爆弾の爆発する音がひびいたので、やつと敵飛行機とわかつた。総司令部の二階の窓からみると、早稲田方面に三カ所から火災が起り、黒煙があがつていたが、二時ごろ消えた。
 午後二時、総司令部を出発。芝浦埋立地の一工場、芝浦製作所の工場、鉄道省被服製造所の三カ所に行き、爆弾で破壊されたところを見る。いずれもひどく破壊され若干の死傷者も出した。つぎに早稲田付近に行つた。焼夷弾で二カ所に炎が起つた跡をみる。民家十数戸が焼失していた。
 午後六時、家に帰る。七時すぎ侍従武官から電話があつたので、宮中に参内し、天皇陛下に、本日の敵機来襲の状況を上奏した。私は、「敵機は一機も撃墜できなかつた」と申し上げた。 

 四月十九日(日)
 本日の新聞は、昨日の敵機空襲のことを報じているが、損害のことは簡単に書いている。
 東部軍司令部が、敵機空機と敵機数機撃墜の発表をしたところ、参謀本部から、防衛総司令部が発表したと勘違いし、空襲の発表は大本営がすることで、防衛総司令部がすべきでない、と文句をいつてきた。その上、私が昨夜参内して、天皇陛下に空襲に関する上奏をしたことについて、参謀本部から、
「空襲に関する上奏は、大本営の幕僚長である杉山〔元〕参謀総長がすべきである。防衛総司令官の権限ではない。今後注意してほしい」といつて来た。
 私が考えるところでは、天皇は統帥大権をもつておられ、参謀総長はその下の幕僚長にすぎない。したがつて、陛下がいつ、どの軍司令官をよびつけて、軍状の報告をきこうとかまわないはずである。
 もちろん、外地にいる軍司令官をよびつけるわけにはいかないので、そんな時は参謀総長が代つて報告することにするが、私は内地にいる総司令官だから、陛下のお召があれば、直接陛下に上奏してさしつかえないと信じている。大本営の抗議は、ずいぶん変なことで、どこまでも国内防衛の統帥権を参謀総長が握つていたいらしかつた。

 ドウリットル空襲のような不測の事態が起きたとき、まず必要なのは、どの機関に、あるいは誰に、判断や対応の誤りがあったのか、本土の防空体制のどこに、スキがあったのか、などについての検討であろう。
 ところが、この東久邇宮稔彦王の「日記」を見ると、どの機関が空襲に関する発表をおこなうか、空襲に関して誰が天皇に上奏するかなどで、軍当局内でツマラナイ争いが生じていたことがわかる。こんなことでは、とても、不測の事態を招いた理由の究明、不測の事態を招いたことへの反省、その責任の追及などは、できなかったに違いない。
 なお、東久邇宮の「日記」によると、一八日朝に、警戒警報が発令されたことになっているが、警戒警報は控えられたというのが真相である。ただし、横須賀鎮守府管区では、午前八時三九分に、警戒警報が発令されている(今月二四日の当ブログ記事参照)。

*このブログの人気記事 2017・6・29(8・10位にかなり珍しいものが)

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