◎院外団員だった笹本一雄から三月事件について聞く
上原文雄著『ある憲兵の一生――「秘録浜松憲兵隊長の手記」』(三崎書房、一九七二)を紹介している。
本日は、昨日に引き続いて、第二章「青雲の記」のうちの、「浜口首相暗殺事件など」の節を紹介する(同節の二回目)。
浜口首相の狙撃事件があってから翌々七年〔一九三二年〕一一月九日には、小沼正〈オヌマ・ショウ〉による〔大蔵大臣〕井上準之助暗殺事件があり、三月五日には三井合名理事長琢団磨を菱沼五郎が射殺するといういわゆる血盟団事件が起っている。
血盟団事件は、井上日召〈イノウエ・ニッショウ〉を中心とする一味によってまき起されたテロ行動であり、彼等の主張するところは、腐敗した上層階級の反省を促すとともに、全国民の自覚を求め、非常時日本の克服打開に貢献するため、一殺多生の捨石ならんとする純粋性を示したものであったが、これ等の背後には大川周明や北一輝などの右翼革新主義者があり、これ等が軍部青年将校に繁がりをもって革新運動が展開されたのである。
この頃の政界は、昭和三年〔一九二八〕八月東京市議疑獄事件によって市会議員の大半が起訴収容される事件、昭和四年〔一九二九〕九月には前鉄道大臣小川平吉の私鉄疑獄事件、天岡〔直嘉〕賞勲局長の勲章疑獄事件、十二月には朝鮮取引所疑獄による山梨半造大将の起訴収容事件等々政界は百鬼夜行の腐敗状態であり、田中〔義一〕内閣のあとをうけた浜口内閣は、合理化政策、緊縮財政によって、失業者は実に二百万にものぼると称せられ、あまつさえ昭和四年秋米国に発生した世界的経済恐慌の浪は、わが国にも襲いかかって不況のどん底に市民はあえぎつつあったのである。
それに加え、昭和六年〔一九三一〕の米作は五千五百万石という大正十年来の大凶作で、柬北、北海道は大飢饉に見舞われ、加うるに金融恐慌による国民生活の危機は、何んによって打開すべきかの問題を抱えていたのである。
この時、左翼運動は社会主義的民主主義の立場から、右翼運動は国家主義的民主主義の立場から、いづれも革新運動を果敢に展開しつつあったのである。
このような情勢のもとで 一憲兵上等兵の身としては、左翼運動の系流とか右翼革新運動の台頭には多少の理解認識はもっていたとしても、あたかも戦線の一兵卒が、戦線の大局を知らず、作戦の何たるかを知らされず、一途に射撃と突撃を敢行しているように、眼前に展開される事態に個々の任務を遂行するのみであった。
出身連隊である青山の近衛歩兵第四連隊に上官や同僚を訪れての帰途であった。
同じ市電に三宅坂から乗った少佐の長い軍刀が後から乗る青年の膝のあたりを突いた。
「痛いではないか、こんな長い物をつるして何になる。他人に迷惑をかけたならあやまれ」
と怒鳴るのが聞えた。
「何を無礼な、軍人を侮辱するか」
と、憲兵腕章を着けている私を見て
「おい憲兵これを取締らんか」
と今度はわたくしに命令する。そこでわたくしは
「次の日比谷でお二人とも降りていただきます、少佐殿の御氏名は何んと申されます」
と勤務手牒を取り出すと
「俺は東京駅へいそぐ。あとでお前の上官に知らせる」
青年は
「それ程のことではありません。痛かったのでつい言葉があらくなってすみません」
と平身低頭するのでそのままにしたことがある。
この頃は、軍隊は無用の長物視された時代で、このあと満州事変以後の軍人にはこんな体験はおそらくないであろう。
緊縮財政は軍縮ばかりではなかった。
昭和六年〔一九三一〕五月二十七日には勅令をもって一般官吏の減俸が発令され六月一日より実施となった。
その頃のことである。東京駅取締勤務で、例によって駅員詰所に入ろうとすると、
「今日は、憲兵さんに入ってもらっては困る」
という。何事かと聞くと、国鉄は減俸、減員に反対してス卜ライキをやり、職場大会中であるという。駅長や助役などがいそがしくとびまわっている。
私はこの時、時局柄〝これは容易ならぬことである。近い将来必ず日本には左翼による革命か、右翼による革新行動が起るのではないか?〟と直感するものがあった。
右翼革新運動は、軍部青年将校に依存してその目的を達成しようとしていた。軍部には昭和五年〔一九三〇〕秋桜会なるものが誕生し、昭和六年三月には幕僚たち一部中堅幹部による、宇垣〔一成〕内閣樹立のためのクーデターが計画され、いわゆる三月事件と称せられる事件があった。
警務係である一憲兵上等兵の私には、それ等事件の内容は詳知し得なかったところであったが、私が特高班に入った頃、当時院外団員であった笹本一雄氏(後に代議士となる)から桜会や三月事件の内容を外部から知らされた程である。【以下、次回】
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