◎ライオンのような顔が青ざめて見えた
上原文雄著『ある憲兵の一生――「秘録浜松憲兵隊長の手記」』(三崎書房、一九七二)を紹介している。すでに、敗戦前後ついては、主要と思われる部分を紹介した。このあとは、時間を遡って、昭和初年に発生した重要事件について回想している箇所を紹介してゆきたい。
本日は、第二章「青雲の記」のうちの、「浜口首相暗殺事件など」の節を紹介する。この節はかなり長いので、適宜、区切りながら紹介してゆく。
浜口首相暗殺事件など
浜口〔雄幸〕首相が東京駅頭で、凶弾に倒れたのは、私が憲兵を拝命して二週間後のことであった。
私はこの日〔一九三〇年一一月一四日〕東京駅取締二番を割当られていた。一番は丸山上等兵と渡辺上等兵で七時から十時まで立番である。私と苅田上等兵は十時から十三時まで、三時間づつの交代勤務なので、道場の実科に出て柔道をけい古していた。
「九時頃事務室からの急報で浜口首相がやられたから、柔道を取りやめて至急事務室に集合せよとのこと、みんな詰所へ飛び込んで、軍服に着替え、上番者である私と苅田上等兵は直ちに東京駅に馳せ〈ハセ〉つけた。
丸山上等兵は、陸軍特別大演習参観のため西下する首相の護衛にあたり、制私服の警官の人垣をつくって、乗車口からホームに出て進行中、ホームで待ち構えていた犯人のピストルで狙撃をうけたのであった。
丸山上等兵は、護衛陣の中から逸早く飛び出して、犯人に組みつき火を吹くピストルをもぎとって、ピストルを持ったまま急報のため分隊に駈け〈カケ〉つけた。駅から分隊まで千五百米〔メートル〕くらいある。これを五分程で走ったのである。
私と苅田上等兵も一目散に東京駅に駆け付けた、
走る途中で軍刀が邪魔になるので手に提げて走る。
〝おっとり刀〟とはこのことであった。
私達が東京駅に着いたときは、浜口首相はホームから駅長室に運ばれるところであった。ライオンのような顔がいく分青ざめて見え、中島〔弥団治〕秘書官等に抱えられていた、私し達は日比谷署の制服警官とともに、駅長室の周囲を警戒した。
帝大の塩田〔広重〕博士が来て応急手当をして、自動車で帝大病院に運ぶまで相当長い時間がかかった。このときの新聞写真に、私の姿が掲載されていて、郷里の父から〝この憲兵はお前ではないか〟と切抜を送ってくれたことがある。
犯人はすでに日比谷署に護送されたあとであり、駅取締の警察官に取調べの内容が伝えられてくる。
犯人は愛国社同人佐郷屋留雄〈サゴヤ・トメオ〉(二三才)で、岩田〔愛之助〕配下の右翼浪人と自供し
「緊縮財政によって、国民をとたんの苦しみに追いやり、軟弱外交によって米英に屈従するのみでなく、ロンドン会議においては統帥権干犯〈トウスイケンカンパン〉の大罪を犯したものを殺害した」
というようなことが、次々と号外によって伝えられる。
ところが取調べにあたっている警視庁は、大切な証拠物件であるモーゼル拳銃が、丸山上等兵によってもぎ取られて麹町憲兵分隊に保管されてあるので,再三憲兵隊にかけ合っているということである。
小山分隊長は
「丸山は拳銃を押えて、第二、第三弾を阻止した最大の殊勲者であり、多数の護衛警官の中にあって憲兵が真っ先に犯人を捕えたのである」
と主張して容易に譲らなかったのである。
このお陰で丸山上等兵は、警視総監賞と憲兵司令官賞を重ねて授与され、やがて抜擢されて伍長に任官した。丸山上等兵と同時に勤務していた渡辺上等兵は、警察官に協力し犯人を逮捕し、警察官の喚問によって犯人の佐郷屋留雄であることなどを報告しているが、この方はあまり賞賛されなかった。
日頃小山〔弥〕分隊長は憲兵は少数精鋭で、警察にひけをとってはならぬと力説されていたのであったが、この事件では余程満悦であったらしい。
私は、初めて東京駅の勤務についたとき、乗車口のホールの床面に、同じように大演習に向うとき暗殺された原敬首相の、暗殺位置が三センチ程の大理石を埋めてしるされてあるのを見て、
「もしこのような事件の起ったときはどうするか」
と日頃の覚悟を喚起していたものである。【以下、次回】
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