礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

幻の本となった『民法典との訣別』

2024-03-20 00:14:36 | コラムと名言

◎幻の本となった『民法典との訣別』

 本日も、『法学者・法律家たちの八月十五日』(日本評論社、2021年7月)の紹介。本日は、同書の「私の八月十五日 第二集」から、舟橋諄一の「私の八月十五日」という文章を紹介したい。初出は、『法学セミナー』257号(1976年8月)。なお、今回、紹介するのは、その後半部分のみ。

私の八月十五日   舟橋諄一

【前半の約二ページ分を割愛】
 八月十五日を過ぎてから、米軍が大学〔九州帝大〕のすぐ裏に進駐してきた。秋も深くなってきたある夜のことである。夜半の二時ごろ研究室を出て、下宿に帰ろうとした。すると、向うから酒気を帯びた米兵が一人やってきた。話しかけてきたので拙い英語で応待しているうち、何か気に障【さわ】ることがあったらしく、その男が突然殴りかかってきた。不意を突かれたせいもあったし、それに、何とはなしに、自分も日本国民の一人として非人道的な戦争の責任を負わなければならないというような気がし、ただ頭をかかえてうずくまったまま、殴るにまかせた。翌日になって食べ物を踏む〔ママ〕時に痛みを感じた。病院で診てもらったら、あごの付け根の骨が折れて全治一か月かかるということであった。大学当局は、最も民主的な教授の一人が殴られたことは日本の民主化のためによくない、というような理屈をつけて、米軍に坑議をしてくれたらしい。そのせいかどうかは知らないが、間もなく米軍は、大学の裏から撤退した。誰よりも喜んだのは、近所に住む若い娘さんとその親たちであった。毎晩のように米兵から激しく戸を叩かれて困っていたからである。
 ところが、もう一つその続きがある。右の事件からだいぶのちの、ある夕方、私は博多駅で乗車券を買おうとした。窓口に一人の米兵がいて、何か係員に聞いている。しばらく待ったが、いっこうに終りそうにない。そばに寄ってみると、まるで必要のない愚問を次から次へと出して、係員を困らせている。私は係員に頼んで隣りの別の窓口から乗車券を売ってもらうことにした。すると、何を思ってか、その米兵は、体をずらせてきて、その窓口をも塞ごうとする。元の窓口が空いたのでそちらに行こうとすると、また邪魔をする。こんなことを繰り返しているうち、すきを見て、私は、係員から乗車券を受取ってしまった。すると、米兵は、いきなり私の頭を殴ってきた。とっさに身を沈めたので、帽子だけが飛んだ。米兵と、にらみ合いになった。この前の事件が口惜しかったので、今度こそはやってやろうと、肚【はら】を決めた。しかし、相手は強そうだ、男の急所を蹴上げるよりほかはなかろう、と思った。駅のことだから、たちまち周りに人垣が出来、米兵は逃げ出した。見えを張って少しばかり追いかけてみたが、暗闇のなかに姿が消えてしまったので、今度はほんとうに怖くなって、追うのをやめた。――以上、つまらない武勇伝(?)ではあるが、占領当時の様子を偲ぶよすがにはなるであろう。軍人というものは、どこの国のものでも、似たようなものである。
    *    *    *
 あの八月十五日をもつて、戦争は終った。私は、ここで、その戦争中に生まれ、そして戦争とともに消え去った小著『民法典との訣別』について、一言触れておきたい。この本の構成について述べれば、第一部は、ナチス法学者シュレーゲルベルゲル博土がハイデルベルグ大学で行なつた講演を内容とする、『民法典との訣別』と題する小冊子の邦訳であり、当時流行した「民法よ、さようなら」論の原典ともいうべきものである。第二部(「民法典との訣別」論について)は、ナチス法学者の右の論述を批判し、よって、民法ないし民法原理の本質とその変遷の理論を明らかにしようとしたものである。いいかえると、ナチス法の神がかり的表現にかかわらず、その説くところの実質は、自由主義経済から独占ないし統制経済への移行に伴う、民法の機能変化を、指すにすぎないことを、論証しようと試みたのである。また、第三部(附録、レンホフ教授の私法変遷論)は、ウィーン大学のレンホフ教授の「私法の変遷」なる論文に盛られた豊富な資料を利用して、経済の独占段階における私法の変遷の実態を明らかにしようとしたものである。――以上がこの本の構成であるが、実をいうと、初めの考えでは、本書を「私法の変遷」と題して、右の第二部と第三部を中心に置き、第一部は附録として附け加えるつもりでいた。しかし、このような構成では、用紙と印刷と出版が大幅に統制され、検閲のきびしい戦時下で公刊することは不可能であつたので、やむなくナチス法学者の論文を表看板にせざるをえなかったのある。しかし、譲歩はそれだけにとどまり、その内容について、いささかも当時の時勢に迎合しなかったことは、いまだに誇りに思っている。ただ、残念なのは、終戦の年の正月前後にやっと本が出来上ったため、輸送の途中空襲でやられたりして行方不明になるものが多く、ほとんど配給のルートに乗らずに消えてしまったことである。当時私の手に入ったのは、当時九大の総長であった百武源吾〈ヒャクタケ・ゲンゴ〉海軍大将の秘書をしていた私の教え子が、総長のお伴をして上京したさい、飛行機に載せて持ち帰ってくれた、わずか二十冊だけであった。
いま、幻の本となった小著を偲びながら、あのような八月十五日の再び来ないことを、心から祈っている。
 〔ふなばし・じゅんいち 九大名誉教授・弁護士。一九〇〇~一九九六年〕

 文中、「百武源吾」は、明治・大正・昭和期の海軍軍人(1882~1976)。1937年、海軍大将。1938年から1942年まで、軍事参議官。日米開戦前、軍事参議官として、ただひとり、対米協調を主張したことで知られる。1942年、予備役に編入。その後、九州帝国大学総長を務める(1945年3月~11月)。二・二六事件のあとに侍従長を務めた海軍大将の百武三郎(1872~1963)は、源吾の実兄。
「小著『民法典との訣別』」とあるのは、舟橋諄一訳著『民法典との訣別』(大坪惇信堂、1944年12月)を指す。
 順序が前後したが、明日は『法学者・法律家たちの八月十五日』の「はしがき」と「目次」を紹介する。明後日は、舟橋諄一の『民法典との訣別』について、若干の若干の補足をおこなう。

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