礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

高麗家系図は、なぜ前のほうが引き裂かれているのか

2017-11-01 05:10:45 | コラムと名言

◎高麗家系図は、なぜ前のほうが引き裂かれているのか
 
 坂口安吾の『安吾新日本地理』から、「高麗神社の祭の笛」という文章を紹介している。本日は、その四回目。引用は、『定本 坂口安吾全集 第九巻』(冬樹社、一九七〇)より。
 昨日、紹介した部分のあと、改行して、次のように続く。

 藤原京を経て奈良京に都したとき、日本の中央政府はどうやら確立の礎〈イシズエ〉が定まったと見ることができる。
 武蔵の国に七カ国のコマ人をあつめてコマ郡をおいたのはその時のことだ。全国各地に土着した多くのコマ人は決して自らコマ人などとは称せず、中央政府のもとに日本人になりきってしまった時だ。七ヵ国の一千七百九十九名だけが、なぜコマ人と称して異を立てる理由があったのだろう?
 コマの祖国はその約五十年ほど前にシラギに亡ぼされているのだが、そのときコマの王様王族が日本へ亡命したというような記事は歴史に現れていない。
 むしろシラギがコマを亡した直後に続々来朝移住したのはシラギ人だが、勝った方が堂々と来朝移住し、負けた方がコソコソ遁入して隠遁定着するのも自然の数で、正史が亡命者の方を大ッピラに記載できないような意味もあったろう。そして関東一円にもシラギの移住は甚しく多かった。一まとめに何千人というのはないが少数ずつ次々とあって、コマの移住者の比ではないようだ。
 ただ大宝三年〔七〇三〕四月の条に、
「従五位下高麗若光に王【コキシ】姓を与えた」
 とあって、大宝三年というとコマ亡びて三十五年後だが、シラギ人の賑やかな来朝移住時代にコマ人が王姓をもらい、これがコマ家の祖先と云われている。コマ村のコマ神社の宮司コマ家に伝わる系図によると、武蔵の国現入閒郡コマ村のコマ人はここに移り集って若光〈ジャッコウ〉に統率されていたもので、その子孫がコマ神社宮司家であることになっているのだ。
 この系図は中世にいったん焼け、そこで一族全員の記録を集めて新しく造ったものであるが、その書き出しは虫がくってチョン切れておって、
「これによってつき従ってきた貴賤相集り、屍体を城外にうめ、また神国の例によって、御殿の後山に霊廟をたて、コマ明神とあがめ、郡中に凶事があるとこれに祈った。長子家重が家をついだ。天平勝宝三年〔七五一〕に僧勝楽〈ショウラク〉が死んだ。弘仁と其の弟子の聖雲とが遺骨を納めて勝楽寺をたてた。聖雲は若光の三番目の子である」
 という意味の前書きがあって、そこから系図になっている。その系図は
 家重。弘仁。清仁。(以下略)
とあって、家重は死んだ人の長子であり、弘仁は家重の弟らしく、又その弟に当る三男が聖雲らしく、清仁は弘仁の子である。
 この前書の前の方がチョン切れているから死んだ人の名は現れないが、恐らく若光をさすのであろう。
 虫が食ったと云われているが、実際はそうではない。中世に焼けた後に、一族参集して一度は再び完成した系図があったのである。ところが、それを更に後世の誰かが「これによって」の前の方を引き裂いて捨てたのである。虫がくったのではなく引き裂いた跡はハッキリしており、さき残った字の一部分がついているが、篇〔偏〕の一部程度だから読むことはできない。
 後世の子孫が引き裂かねばならぬ理由があったのだろう。たぶん国撰の史書と異る記載があるために、後世の子孫にとって当時の事情として都合がわるい記事があった為だろうと察せられる。なおこの系図はその後一時人手に渡ったこともあり、また明治十八年〔一八八五〕には内閣修史局のモトメに応じて差しだし、内閣修史局で模写をつくり原本を本主に返したともあるから、それらを機縁に一部を破却する必要があったのかも知れぬ。【以下、次回】

 原文では、このあとに「*」による区切りがあるので、ここまでがひとつの「節」ということなのであろう。なお、以上の節に関しては、省略することなしに紹介している。

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