礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

坂口安吾「高麗神社の祭の笛」(1951)

2017-10-28 02:01:57 | コラムと名言

◎坂口安吾「高麗神社の祭の笛」(1951)
 
 先月二三日以降のコラムで、埼玉県の高麗神社について触れた。この神社を訪ねた文化人のひとりに、作家の坂口安吾がいる。本日は、『安吾新日本地理』から、「高麗神社の祭の笛」という文章を紹介してみたい。この文章は、かなり長いので、ところどころ、割愛しながらの紹介になるかと思う。
 引用は、『定本 坂口安吾全集 第九巻』(冬樹社、一九七〇)より。初出は、『文藝春秋』一九五一年(昭和二六)一二月号というが、未確認。

 高麗神社の祭の笛

 今日では埼玉県入閒郡〈イルマグン〉高麗【コマ】村ですが、昔は武蔵の国の高麗郡であり、高麗村でありました。東京からそこへ行くには池袋駅から西武電車の飯能【ハンノウ】行きで終点まで行き、吾野【アガノ】行きに乗りかえ(同じ西武電車だが池袋から吾野行きの直通はなく、いっぺん飯能で乗りかえなければならない)飯能から二ツ目の駅が高麗【コマ】です。高麗村の北側背面は正丸峠〈ショウマルトウゲ〉を越えて秩父に通じ、東南は高麗峠を越えて飯能に、また高麗川を下れば川越市へでて入閒川〈イルマガワ〉から荒川となり(つまり高麗川が入閒川に注ぎ、入閒川が荒川にそそいで)昔の隅田川で申しますと浅草で海にそそいでおった。その海にそそぐところが今の浅草観音様のところ、そこが当時の海岸で海はそこから上野不忍池まで入海〈イリウミ〉になっていたものの由です。もっともそれは江戸開府ごろの話ではなくて、浅草の観音様ができた当時、千何百年むかしの話です。本郷の弥生ヶ丘〈ヤヨイガオカ〉や芝山内〈シバサンナイ〉がまだ海岸だった頃のことだ。
 続日本紀〈ショクニホンギ〉、元正〈ゲンショウ〉天皇霊亀二年五月の条〈クダリ〉に、「駿河、甲斐、相模、上総、下総、常陸、下野の七国の高麗人一千七百九十九人を武蔵の国にうつし、高麗郡を置く」とある。これが今の高麗村、または高麗郡(現入閒郡)発祥を語る官撰国史の記事なのである。
 この高麗【コマ】は新羅【シラギ】滅亡後朝鮮の主権を握った高麗【コウライ】ではなくて、高句麗【コクリ】をさすものである。
 高句麗は扶余【フヨ】族という。松花江〈ショウカコウ〉上流から満洲を南下して朝鮮の北半に至り、最後には平壌に都〈ミヤコ〉した。当時朝鮮には高句麗のほかに百済【クダラ】と新羅【シラギ】があった。百済は高句麗同様、扶余族と称せられている。日本の仏教は欽明天皇の時、今から千四百年ほど前に百済の聖明王〈セイメイオウ〉から伝えられたと云われているのである。
 ともかく扶余族の発祥地はハッキリしないが満洲から朝鮮へと南下して、高句麗、百済の二国をおこしたもので、大陸を移動してきた民族であることは確かなようです。
 この民族の一部はすでに古くから安住の地をもとめて海を越え、日本の諸方に住みついていたと考えられます。高句麗は天智天皇の時代に新羅【シラギ】に亡ぼされたが、そのはるか以前からの当時の大陸文化をたずさえて日本に移住していることは史書には散見しているところで、これらの史書に見ゆるものは公式の招請に応じたものか、または日本のミヤコや朝廷をめざして移住してきたものに限られているのであろう。
 自分の一族だけで自分勝手に海をわたり、どこかの浜や川の中流、上流などで舟をすて、自分の気に入った地形のところへ居〈キョ〉を定めた。というテンデンバラバラの家族的な移動は、日本の諸地に無数にあったものと想像しうるのである。
 もとより、新羅人や百済人の来朝移住も多かった。南鮮と九州もしくは中国地方の裏日本側とを結ぶ航海が千数百年前に於ても易々たる〈イイタル〉ものであったことは想像に難くない。いかなる猛獣や毒虫が住むかも知れぬ原始の山野を歩くのに比べれば、南鮮と北日本を結ぶ航海の方ははるかに易々たるものであったに相違ない。【以下、次回】

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