礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

十三分隊だけが帰らないのは変だ(面会人)

2017-05-15 03:34:37 | コラムと名言

◎十三分隊だけが帰らないのは変だ(面会人)

 昨日の続きである。『太平洋戦争実戦記 4』(土曜通信社、一九六三)所収の、中川要の「戦艦陸奥の爆沈」を紹介している。本日は、その二回目(最後)。「帰りの旅」の章の一部、および「帰らぬ十三分隊」の章の全部を紹介する。

  帰 り の 旅
   本当なら機密保持のため帰らせられないのだという
  特 別 の 措 置
 実習中の苦しみは、なんといっても多くの僚友を呑んだ海が、すぐそこだということであった。艦内ならわからないが、一度上甲板に出るとプーンと重油のくさい匂いが鼻をつき、掃海船が行きかい、遺体処理の煙が見え、私たちは又してもがっくりとするのであった。
 又一通りの品物は貰ったとは言え、何もかも無くしたので、毎日の生活が不自由このうえもなかった。
「陸奧遭難者は上甲板に整列」
 ある日こんな号令がか、って、私たちも大急ぎでその列に加わった。だいたい兵で三十円位いの手当が支給されたのである。私たちは大変喜こんだ。しかし練習生には交付されないということで、私たちはさびしくそこを立った。
「練公は半人前だ」私たちは卒業するまでこの言葉を何処へ行っても、誰からも聞かされ、ずいぶん苦しい思いをしたが、又ここでもそうだったのである。
「チェッ、馬鹿にしてやがる、俺等だって泳いだんだぞ」
「死んでもかまわんのだよ。一銭五厘で代りがワンサとあるんだから」
 私たちはこんな捨てぜりふをはいて不平をまぎらわしたが、酒保にも行けず、塵紙や石鹸にも不自由しながら、僚友の好意に気兼ねをしつつ毎日の実習をつづけねばならなかった。
 それでも一ケ月の実習を無事終わって、私たちはなつかしい土空〔土浦海軍航空隊〕へ帰ることになった。たまたま服装は下が黒、上が白の海軍特有の半黒半白の時季だったが、私たちは長門に乗っている軍楽兵から服をかりて帰ることになった。
 その日私たち十三人の者は、艦橋の作戦室に一人一人呼ばれて、艦長と対面し、絶対秘密保持を誓わされ、いろいろと秘密を洩らした者の処罰された例をひかれ、本当ならば帰らせることは出来ないんだが、特別の措置によって帰隊させるのだから、その点をよく考え、亡き友の分までも奮斗しなくてはならんことを、こんこんと訓された。
 そして長門にうつり、今度は高射機関銃座取付工事のため、呉に入港する長門に便乗して帰路につくことになった。
 があれほど秘密々々といわれ、瀬戸内海の離島で起こって、それこそ我々以外知るはずもない事件が、呉に入港してみればすでにニュースでもなんでもなく、旧聞に属し、秘密々々といっておそれているのは私たちだけ「陸奥は沈んだ」と誰も彼も話しているのには、秘密々々もあてにならんものだと驚くとともに、どこからどう伝わったのかと、その早さと正確さを不思議に思った。
 呉の軍港では、駆逐艦や潜水艦、潜水学校を見学したが、来たときの編成にみせるため何ケ班にも分け、あくまで十三分隊の〔人数が〕不足していることをカムフラージュするようにしていた。
 呉駅から軍用列車に乗り込むのも風の如く、なんだかコソコソと乗車させられたようだった。列車の編成も来た時のままで、途中で受け取る弁当なども十三分隊を含めた数字を受け取っていた。従って車中はゆっくりとし、弁当なども二つ渡され、皆は大喜こびをしていたが、私としてはいつまでもメソメソしてはいられなかったが、他の者のように、手ばなしで楽な旅行を喜こび、二人分の飯を食う気にはなれなかった。
 呉駅で呉海軍病院に入院していた和田と落ち合ったが、元気になったとは言えまだ顔色がとても悪く、
「まだ、重油くさいゲップが出る」と言っていたが、私たちは仲間が一人でもふえることは嬉しく心強いことだつた。
 皮肉にも、或はそれは一種の陽道作戦とでもいうものかもしれないが、帰りは大きな駅には殆どの如く停車し、右をみれば豚車、左をみれば坑木といった様な、来る時の状態は一度もなく、私たちを楽しませてくれたが、私は来る時の事を思い出して、〔死んだ大阪出身の竹本にとって〕あれが故郷の最後の見納めだったのにと、来るとき心ゆくまで見せてやりたかったと思った。
  大 阪 の 灯【略】

  帰 ら ぬ 十 三 分 隊
   どれ一つ、涙を誘わぬものはなかった
  機密保持の苦しみ
 土浦駅へ着いたのは夕方だった。航空隊へついてからも兵舎には入らず、隊門からすぐ左へ折れて、講堂の横を通って剣道場へ入った。教員や分隊長の顔は血走って、何かおののいているような感じで、そわそわと私たちを指揮した。
「今更なにを」と私たちは不思議に思ったが、剣道場に集った理由は、機密保持を確認するためだった。
「十三分隊は艦の都合で当分帰らぬ」ということにするから、体の都合やなにかで艦務実習に行かなかった教員や、連習生に問われた場合にはそういう風にいうことなど注意があり、私たちもそのまゝ十二分隊になりすまして兵舎に帰った。
 陸奥のことは、隊内ではほとんどの練習生が知っており、それだけではなく、十三分隊の兵舎から変な声が聞えるとか、火の玉が飛んだとかあらぬ噂までたっていたほどで、艦の都合で帰らないなどという私たちは、却っていい笑い者になった。その理由の一つは、私たちより一期上の十期の練習生が卒業の関係で横須賀で山城に乗艦、艦務実習中であり、実習中の練習生が呉からの「陸奥沈没」の飛電をキャッチしていたせいもあった。
 それでも機密保持には必要以上の神経がつかわれ、いろいろな物品の交付などでも、私たちはいつも「十三人の者」という呼び名で呼ばれ、陸奥でなくした品物などの交付にも、一応過失によりなくしたと届け出て、分隊長、主計長の判を貰って受け取る始末であった。事情をしらない主計課倉庫の兵隊から、「ぼやぼやしているから」とさんざん油をしぼられて、やっと貰うということも度々で、つくづく情ないやら腹が立つやらであつた。
  面 会 人
 面会人も多数来るが、何時も「十三分隊は帰らん帰らん」で門前払いをくっていた様子で、いつかも日曜だったが、私は外出せず隊内に残っている時だった。
 私の親しい戦友の父母と思う人が面会に来たが、例によって「十三分隊は帰っていないから」との門衛の言葉に、不思議に思つて、他の外出している練習生にでも尋ねたのであろう。十一十二は帰っているのに十三だけが帰らないのは変じゃないかと、再三尋ねられ、何処でどう私の名前をきかれたのかは知らないが、私に面会を求められたらしかつた。面会所から中川に面会人が来ているという電話があったそうである。幸か不幸か私はたまたま兵舎にい合わせず、とうとうそのまゝになってしまった。故郷の遠い私は面会など来てくれる人もなく、面会ときいて、とびあがらんはかりに驚いたが、いろいろ後になつて事情をきゝまずまずあの場合電話口にいあわせずよかったとひそかに思いもした。が、そんな事があるにつけ、亡くなった戦友の父母のことが思われ、気の毒にたえず、常に心をいためていた。
 人の噂も七十五日とか、だんだんと十三分隊のことも人々から忘れられた頃、私たちはなつかしい兵舎に入って遺品整理を行なった。
 書きかけの手紙、穴のあいた靴下、つかいかけの石鹸、休暇の時の土産用にいろいろと酒保の品物などためている者、どれひとつをみても涙さそわぬものはなかった。
 その後整理した遺品は、釣床〈ツリドコ〉など一切の十三分隊の用具とともに温習講堂に移され、私は鍵を渡されていたが、まもなく航空隊を去ったので、その後がどうなったかつまびらかではない。
 十三分隊の兵舎にも、後輩の練習生が入ってきて、永遠に十三分隊のことは謎につつまれたまゝ人の口からは忘れられていった。  (終)

*このブログの人気記事 2017・5・15(2位にかなり珍しいものが入っています)

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