礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

吉野作造は東京帝大の伝統を破壊した

2017-05-08 05:32:32 | コラムと名言

◎吉野作造は東京帝大の伝統を破壊した

 昨日の続きである。吉野作造著『新井白石とヨワン・シローテ』(元々社、一九五五)の巻末にある赤松克麿による解題「校訂者の言葉」の後半部分を紹介する。

 彼の思想戦の影響力について、無視できない一事は、彼が東京帝国大学の教授であったことである。いったい東京帝国大学の法学部には、明治政府が官吏養成所としてつくった建学の伝統があって、したがってこの学校は、官僚政府の学問的または思想的牙城ともいうべき性格をもっていた。従来こゝの憲法学教授に穂積八束〈ホヅミ・ヤツカ〉博士、上杉慎吉博士などがいて、大権政治学または天皇親政論を講じ、帝国憲法を専制主義的に解釈する学説が幅を利かした理由がこゝにある。もっとも一方に小野塚喜平次〈オノヅカ・キヘイジ〉博士、美濃部達吉博士、高野岩三郎〈イワサブロウ〉博士などの民主主義思想の学者がいたが、あまり影響力をもたなかった。美濃部博士が天皇機関説に立って、天皇主権説に立つ上杉博士と論戦を交え、一時学界を賑わしたことがあるが、これも憲法学的論戦の域を離れたものではなかった。ところが彼は、学内で民主主義政治学を講ずる一方、社会的論壇に立って民主主義の巨弾を放ち、官僚政治に挑戦したのである。いまゝで保守思想の牙城と目せられた東京帝国大学から保守階級の心胆を寒からしめる民主主義の学者が現われて、時代の新気運を指導することになったのである。この現象は社会の異常な注目をひき、そして彼の思想的影響力を大ならしめた一因であると考える。たしかに彼は東京帝国大学の伝統を破壊した第一人者であって、彼の時代以後、東京帝国大学は新思想の牙城のように見られるにいたった。それだけに保守階級の反感をまねき、彼にたいする風当りか強かったことも否定できない。
 彼は民主主義政治を確立するために、普通選挙の実施を主張し、そして民意を中軸とする責任政治の樹立を主張したが、これがためには、一方において国民にたいし民主主義の啓蒙教育を行うとゝもに、他方において民主政治実現の障害である保守勢力、すなわち軍閥・官僚・貴族等にたいして仮借〈カシャク〉なき攻撃的論陣を張った。わけても軍部にたいする攻撃は最も生彩に富むものであった。ことに彼は軍部の専横が我国の対外政策に介入することにたいし、心から憤りを感じていた。彼は明治以来、軍部にたいし正面から通烈な批判を加えたきわめて少数識者のひとりであった。それは彼の政治悪を憎んで仮借しない鋭い良心からくるとゝもに、軍部専制のため日本の前途に大きな憂いを感じたからであった。
 彼は非民主的勢力の一つとし枢密院を批判し、大正十三年〔一九二四〕三月から四月にかけて「枢府と内閣」という題名の論文を朝日新聞に連載した。ところがこの論文が当局の忌諱に触れ、彼は東京地方裁判所検事局に召喚され、いろいろ取調べをうけた。結局、起訴はされなかったが、以後こうした問題について評論しないということになり、彼は箝口令を布かれたのであった。この論文は彼の朝日新聞在職中に書かれたものであるが、これが当局の忌諱に触れたことにより、彼は同社顧問の退職を余儀なくされた。彼が東大を辞して朝日新聞に入社したのは大正十三年二月であり、そして退社したのは同年五月であった。
 彼は自分を臆病者だといっていた。右翼の壮漢などが訪ねてきて面談しているさい、いつ襲いかゝられるかもしれないから、いつでもうしろの逃げ口をあけておくのだといっていた。体力が弱く武道の心得もない彼は、個人的暴力にたいしては、無抵抗主義で逃げる以外に道はなかったから自分を臆病者だといったのであるが、しかし彼には普通の知識人に見られない烈々たる勇気があった。官僚軍部にたいしてきびしい批判を加えたのも彼の勇気のしからしめるところであるが、第一次大戦後、自由主義者に迫害を加えた右翼団体の浪人会を攻撃し「浪人会は國體擁護の美名に隠れて、その所属の大半は国家に有害なる運動を試みる団体である」と断じ、ついに吉野対浪人会の殺気みなぎる立会演説会(大正七年〔一九一八〕十一月二十日、東京神田の南溟倶楽部〔ママ〕)が行われ、彼が単騎で正々堂々の論戦を交えたことは、彼がいかなる威力にも屈しない勇気の所有者であることを語るものであった。この勇気は一種の宗教的のものであって、キリスト教的教養からきたものであると思われる。
 彼が東大において政治学と政治史の講座を担当したことは前に述べたが、彼は生来歴史が好きであって、政治史の研究にはかなり力を注いだ。ところで彼の研究した政治史は三つの部面に分れている。ヨーロッパの近代政治史、中国の近代革命史、日本の明治政治史がすなわちこれである。前二者は彼の壮年期において研究したものであって、大体完了したのであるが、明治政治史は晩年において最も力を注ぎ、そしてついに未完成に終ったものである。ところで彼は明治政治史を研究するにあたって、政治のみを対象とせず、ひろく明治文化の硏究に手をつけた。正しい明治政治史をつくるために、明治文化にも目を通す必要があったのであろうが、また一面から見れば、彼の生来の歴史趣味が、未開拓の余地のある明治文化の研究に興味をもたせたと思われる節もある。晚年において彼はほとんど政治評論を書かないで、もっぱら明治文化の研究に力を注ぎ、その凝り性を十分に発揮したのであった。
 明治文化の研究といえばすこぶる多岐にわたり、到底個人の力では及ばないので、彼は同好の士をあつめて協同研究をはじめた。大正十三年十一月、彼を中心として生れた明治文化研究会がこれである。同人は彼を加えて、石井研堂、石川巌、井上和雄、尾佐竹猛〈オサタケ・タケキ〉、小野秀雄、宮武外骨〈ミヤタケ・ガイコツ〉、藤井甚太郎の八氏であった。この会の目的としてかゝげたのは「明治初期以来、万般の事相を研究し、之れを我が国民史の資料として発表すること」であって、機関雑誌「新旧時代」を発行し、時々講演会及び展覧会を開くことを事業とした。この会の創立は、彼にたいして宮武外骨〈ミヤタケ・ガイコツ〉氏が提案したことが直接の動機をなしたのであった。その後この会の同人はだんだん数を増して、昭和三年〔一九二八〕ごろには次のような顔触れになった。
 石井研堂、石川巌、早坂四郎、尾佐竹猛〈オサタケ・タケキ〉、小野秀雄、奥平武彦、川原次吉郎〈ジキチロウ〉、柳田泉、高市慶雄〈タカイチ・ヨシオ〉、松崎実〈ミノル〉、藤井甚太郞、神代種亮〈コウジロ・タネスケ〉、小松清、小松薫、齊膝昌三、木村毅〈キムラ・キ〉、宮武外骨、下出隼吉〈シモデ・シュンキチ〉、吉野作造。
 この会は定時に例会を催うして共同研究を行い、時々講演会や展覧会を開いて研究を発表し、一方「新旧時代」(後に明治文化研究と改題)を発行して、歴史的価値ある資料や評論を掲載したのであるが、この会の業績として最も大きなものは明治文化全集の刊行である。この全集は二十四巻から成り、明治文化に関する貴重な資料と文献を収め、さらに厳正なる解題をかかげたもので、明治文化史を研究するものにとって、欠くことのできない宝典である。彼はこの全集の編集担当代表者であった。
 明治文化の研究について、彼がまづ最初に主眼を置いたのは、明治文化のうち、西洋文明に影響された方面を歴史的に研究することであった。そうするには維新以後のことだけでなく、幕末にさかのぼり、さらに洋書解禁を行った徳川吉宗時代までさかのぼらねばならぬ。こうした立場から、彼はいろいろの本を蒐集し、それを通読した。そして面白いと思ったものは書き留めておき、大切だと思ったものは詳細なる解説をつくった。こうした材料は分量が多くなるから、時々まとめて、「主張と閑談」と題する本のシーリズをつくることになった。そして大正十三年〔一九二四〕七月「主張と閑談」の第一輯として出版したのが「新井白石とヨワン・シローテ」である。このシーリズは固苦しい論文とちがって、肩のこらない面白いものであったから、歴史的読み物として、当時一部の知識人のあいだにすこぶる好評を博したのであった。彼のあつめた歴史的資料は、読み物として面白肖いばかりでなく、日本文化史の研究者にとって、貴重なる歴史的文献であることはたしかである。そこで版を新しくして、ここに元々社から出すに至った次第である。ところで、こんど「新井白石とヨワン・シローテ」を上梓するにあたって、書物の内容の分量がすこしすくないことに気がついたので、「新旧時代」や「明治文化研究」に掲載された彼の評論から数篇を拔いて、この本に増補することにした。増補したものは次の通りである。
 明治文化の研究に志せし動機(大正十三年〔一九二四〕四月号「新旧時代」)
 明治事物起源を読んで(大正十五年〔一九二六〕十二月号「新旧時代」)
 聖書の文体を通じて見たる明治文化(昭和三年〔一九二八〕一月号「明治文化研究」)
 西洋文芸の邦訳一つ二つ(大正十四年〔一九二五〕十一月稿)

 若干、注釈する。ここで、赤松克麿が取りあげている美濃部達吉と上杉慎吉の論争は、一九一二年(大正二)にあった学問上の論争(家永三郎のいう「第一回の機関説論争」)で、一九三五年(昭和一〇)に起きた、いわゆる天皇機関説事件のことではない。
 赤松は、吉野作造対浪人会の立会演説会(一九一八)の会場を、「東京神田の南溟倶楽部」としているが、「神田南明倶楽部」が正しいと思われる。

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