◎能記も所記も同時に存在する(日下部文夫)
昨日の続きである。日下部文夫〈クサカベ・フミオ〉氏の論文「言語の起源について」(『月刊言語』第六巻第四号、一九七七年四月)を紹介している。
昨日は、第四節「共同演戯――ことばの始まり――」の前半を紹介したが、今日は、その後半を紹介する。
ここで述べた考えは、音声について、無意味と不明瞭でこんとんとしたものを設定したことと、その現われる場に集団演戯を選んで、その参加者共通の記憶を伝達機能の発生するより前に置いたことが根本である。恣意性を本来とする言語記号は、社会と個人の創意が分裂することなく調整される場がなければ、その全員の納得するような拘束性を生むことが難しいだろう。ことばの出発点においては、言語記号にまつわる矛盾を同時に包みこめる条件が必要なのである。
集団演戯は、(a)共同の枠の設定、 (b)共感の高揚・蓄積、 (c)経験の再生・再認識などを目的としている。
状況に応じてなんらかの必要があれば、集団の協同の存否を一同がそろって演ずる仮の行動によって確認しなければならなかった。そろって行動し、なんらかの繰り返しをしているうちに情意は重なりあってたかぶり、内面の力が大きくなってくる。力が溢れるまで貯えられると、それが一定の実際的な行動を遂行する活力になる。集団の団結力を試みるか、高揚した気分にひたるか、現実の課題に取り組む力を得るために、集団演戯の経験を再び実現しようとする気持が芽生える。その中から言語は、まず手ぶり足ぶりなどの不純物もまじえた社会化された記憶として成立したのだと考えたい。その社会的記憶の内実は情動性のものであり、それは行動とか行動の対象とかでみたされる所記〔シニフィエ〕に相当した。その外部を形づくる声は、自覚的な身体的運動と無自覚的な生理を基盤として、作業的行動による調整を加えられた、あるリズムで、分節され、結合され、一定の能記〔シニフィアン〕を形づくる。また、そのリズムにのって演戯される模倣的しぐさは、しだいに抽象化し、典型化し、やがて内在化して一定の所記の結び目を成す。能記も所記もその演戯の場において同時に存在するし、発することと受けとることとが、そこでは個人内においても、個人間においても併存している。さらに個人的確認が集団的に成立している。それはこんぜんとした一体を成している。そこでは、また表出も受容も現実に躍動する共感の中で一体になっている。ことばはそのルツボから引き出されたものだろう。
個人と集団とのこんぜん一体の中で情動が認識と行動と発声とをないまぜにひたして活動した場合には、自作〈ジサ〉も他作〈タサ〉も、伝承も創作も、天然も契約も、けじめをつけられない一体のものになっているのではないだろうか。
ソシュールは、その『一般言語学講義』の第一部第二章で不可変性と可変性について述べた末尾で、「社会的な力と結びつく時間の活動」を指摘し、「継続性が自由さを無にする」といって、言語記号の恣意性の歴史的な現われ方が拘束的であることを教えているが、言語記号の起源にもそうした二面性があって、それこそがその存在のしかたなのであろう。
〔後記〕第一、第二、第三章は、それぞれの専門分野における業績を使わせていただいた。第四章の趣意の中心に置かれている「集団演戯」の考えは、友人、山口光氏の談話からとって発展させたものである。(くさかべふみお・言語学・日本語学)
この論文の著者・日下部文夫氏については、詳しいことを知らない。国会図書館のデータを検索すると、多くの論文があるようだが、単著はないようである。また、インターネット情報によれば、生年は、一九一七年(大正六)だという。
後記によれば、第四節の「共同演戯」(集団演戯)というアイデアは、もともとは山口光氏のものだったようである。山口光氏というのは、たぶん、『還元文法構文論』(めいけい出版、二〇〇一)の著者・山口光氏(一九二〇~二〇〇五)のことであろう。
日下部文夫コトバのひろば
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