礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

言語発生の過程を反復再現する「共同演戯」

2015-12-03 03:03:31 | コラムと名言

◎言語発生の過程を反復再現する「共同演戯」

 今月一日、水木しげるさんと京極夏彦さんとの対談を紹介したが、その中で水木さんは、ホピ族の儀式に立ち会った体験を語っていた。水木さんの発言の、その部分を入力しながら、むかし読んだ、ある論文が思い浮かんだ。その論文のタイトルも、筆者も、載っていた雑誌名も忘れてしまったが、気になって、言語学関係の雑誌を引っぱりだしていると、その論文が出てきた。
 日下部文夫〈クサカベ・フミオ〉氏の「言語の起源について」、雑誌『月刊言語』第六巻第四号(一九七七年四月)所載の論文である。
 同論文は、全部で四節からなるが、注目すべきは、その第四節である。さっそく引用してみよう。

 四 共同演戯――ことばの始まり――
 すべての器官が専門化あるいは特殊化せず、裸で頼りない種族であるヒトだが、自身と外界の間には、ことばという見えない緩衝幕をまといつかせて巧みに生きのびている。それは、遅滞と調整のシステムであるが、それがかえってヒトにめざましい速度と環境をのりこえる到達度とをもたらしている。
 このヒトが初めからヒトの形質を備えていたと考えたいならば、いつかヒトらしくなったときがあって、それとともにか、それに先立ってか、それに続いてか、ことばを語るようになった、と考えるのが自然である。そこで、立って歩いて脳が大きくなり、今日のような形になっていたところで、どんな事柄またはどんな状態の中からことばが語られるようになっただろうか。次に考えられるところを列挙していこう。
(1) ことばの媒体となる音声は、音声の中でもその初めには意義と結びついていなかったものであったと考えてよいだろう。ヒトの際立った特徴は、音声をもてあそぶことであり、生後一年の喃語期があることは、ヒトという種が確立するに先立って、そうした特性を身につけていたといえるので、無意味音はヒトの基盤に備わっているからである。
(2) 恣意的な性格をもちながら、社会共有の記号となるためには、その資料は共同の場で現われるか、つくられるかしなければなるまい。
(3) 共同の場に記号の媒体となる発声を提供するのは、ひとりであれ数人であれ、孤立した創作者にはならない。参加者といりまじって呼び交わし、声を合わせて、その声は全員のものとなった状態を考える。
(4) 共同の場に現われる発声の方から考えると、それがいくたりの声であろうと、はじめこんとんとしていて、とりとめもたく表記も困難なものであり、やがてそれに共同製作の手が加わって一定の明確な形になると思われる。
(5) その形については、まずこんとんとして現われる素材は、数えられる場合も、数えにくい場合も、またひとまとまりで分けにくい場合もあるだろうが、連合的に対立するか、統合的に照応するか、組合わされたり、分裂したりして、いくつか同時にできてくることを考えるべきだろう。
(6) 共同の場というのは、互に検証し確かめあう、儀礼的な演戯の場が自然に生まれてきたものとする。
(7) やがて共同演戯の場は、わざわざもうけられもするようになり、くりかえすたびに同じような状態がかもしだされ、同じ形式の発声が現われ、その中で人々の情動の高まりがあり、その行動に一定の方向が示される。
(8) 共同演戯で得られる情動的効果やそこで現われる発声などは、いっしょに行動してこそ存在していた。その記憶も演戯をすることによってよみがえった。それがやがて、くりかえして参加している個人に分属して、共同演戯の場を離れても、実現でき、その部分部分も回復できる確実な記憶となる。
(9) 共同演戯の構成員が演戯の現場を離れてその各部分をいつでもなぞることができるようになり、全員共有の記憶とするようになると、その構成員同士の間では、演戯の各部分を使って、同じ気分にひたったり、同じ事情の理解に達したり、同じ行動へのきっかけをつくったりすることができるようになる。
こうして、ヒトはことばの門口にはいったと考えたいのである。【以下、次回】

 ここで、日下部文夫氏は、「ことばが語られるようになった」過程に関して、壮大な仮説を提起している。この仮説の当否について判断するだけの素養は、私にはない。しかし、水木しげるさんが報告しているホピ族の儀式が、ここで日下部氏が説明しようとした「共同演戯」に類するものであることは理解できる。
 日下部氏のいう「共同演戯」とは、ことによると、ホピ族のおこなう儀式などを念頭に置いたものではなかったのか。あるいは、――もし、この日下部仮説に妥当性があるとすると、ホピ族などの「儀式」は、言語発生の過程を反復再現しようとする「共同演戯」ではないのか。【この話、続く】

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