礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

好ましからぬ執筆者、好ましからぬ出版社

2015-11-02 02:50:01 | コラムと名言

◎好ましからぬ執筆者、好ましからぬ出版社

 本日も、日本ジャーナリスト連盟編『言論弾圧史』(銀杏書房、一九四九)から。本日、紹介するのは、同書の「出版弾圧史(昭和期)」の章(執筆・畑中繁雄)から、「編集権の強奪はこうして達成された」の節の一部である(九四~九八ページ)。
 畑中繁雄はジャーナリストで、戦中に『中央公論』の編集長を務めたことで知られる。

 編集権の強奪はこうして達成された
 ―日華事変から終戦前夜まで
 日華事変を一つの契機として、当局の言論弾圧はいよいよ苛烈の度を高め、かつ大巾に組織化され、いわばその高度化段階に入つて行つた。筆者〔畑中繁雄〕は、日華事変以後敗戦前夜までを昭和言論弾圧史の後期と見るのである。前期に比しての、この期における言論弾圧の特質は、
(一) 有力執筆者の連続的検挙の拡大については前期におけると全く同様であるが、さらに一歩を進めてこの段階において不当検挙の手は編集者に及んでいる
(二) 反動当局の監視の目はようやく各出版社の経営内部に及び、編集者、やがては読者層にも及んでくると同時に
(三) 検閲方針についても、消極的な事後検閲に甘んぜず事前検閲を強い〈シイ〉、やがては題目、執筆者の変更から、さらには官製原稿の掲載および特殊テーマの採択強要などの政策を通じて、ついには編集権の掌握じうりんを恣ま〈ホシイママ〉にするにいたつた
(四) 反動政府みすから「好ましからず」と認めた執筆者の執筆禁止の示達〈ジタツ〉、しかもこれは在来多く左翼系執筆者にかぎられていたものが、この段階にいたつていわゆるブルジョア・リベラリストをもその枠内に収めた。さらに一歩を進めて
(五) 用紙割り当て権を握ることにより、好ましからぬ出版社に対しては用紙割当量を極度に削減し、物的条件の改悪をもつてその社の経営縮小、解体を策したのみか、後には企業整備に藉口〈シャコウ〉して同様出版物および出版社を現実に解体せしめた
(六) 戦争末期においては、好ましからぬと認めた出版社に対しては直接政治力を発動して公然自廃を強要、ついにはそれを強行するにいたつた
 右のごとき言論制圧の推進力となつたものは、いうまでもなく昭和十年〔一九三五〕前後から着々政治の表面にのし上つてきた軍部・官僚である。すなわち、従来久しきにわたつてブルジョワ政党の制圧下にあつた軍部は、満洲事変を契機として大きな反撥を示し、みすから反自由主義の原動力として、国体明徴の徹底、広義国防の完成、自主積極外交の樹立等を呼号しつゝ、日華事変の拡大を利してみずから軍国主義的国家体制確立の主役となつた。
 一方、官僚は、軍部が表面上直接政治の衝〔かなめ〕に立つことの困難な事情に助けられながら、その代行者として、これに便乗しつゝ、また政党勢力の没落の間隙に乗じつゝ急速に政治の全面に進出してきたのであつた。以後、原始的なまでにろこつな言論統制と弾圧は、すべてこれら軍部官僚およびその別働隊の合議合作によつて、強引におし進められて行くのである。
 当時、すでに革命的言論機関やその組織のすべてが完全に姿を没していた後であつたから、そういう軍部官僚の圧迫は、多くの一流、二流営業出版社のうち、自由主義的命脈をたとい最低限度においてゞはあれ、いまだ保持していると見られた改造社、中央公論社、日本評論社、岩波書店などに集中したのはむしろ当然であつた。しかし、それらの出版砒とて、すでに数次にわたる有力奇稿家の検挙により、また日に日に狂暴化するファッショ攻勢の脅威に押されて、その本来の性格と使命からぜんじ遠のいて行つた。わずかに当時いまだ検挙の手を免がれていた労農派執筆者や保釈出所中の寄稿家、いわゆる左翼系残党に頼つて、いくぶん本来の性格を残してはいたものゝ、昭和十一年〔一九三六〕七月にはまたまた「コム・アカデミー」一派の検挙があつて、平野義太郎、小林良正、山田盛太郎らが奪われており、また翌十二年〔一九三七〕十二月十五日まさに日華事変直後にいわゆる「人民戦線」一派の一斉検挙が行われ、加藤勘十、大森義太郎、鈴木茂三郎、青野季吉らを牢獄に送り、翌十三年〔一九三八〕二月一日には、これに関連ありとして、いわゆる「教授グループ」の検挙が強行され、大内兵衛、有澤廣巳、高橋正雄、美濃部亮吉、宇野弘蔵、脇村義太郎、阿部勇らの当時第一線級の寄稿家を牢獄に送つて、その執筆者陣に大きな空白を作つた。さらに事変中、十四年〔一九三九〕には「唯物論研究会」一派の逮捕があつて、伊豆公夫、戸坂潤、岡邦雄らが論壇からその姿を没している。
 のみならず、弾圧の手は、これに呼応して、一連の自由主義思想家にも及び、日華事変直後すなわち昭和十二年〔一九三七〕九月、『中央公論』七月号に掲載された東大矢内原忠雄〈ヤナイハラ・タダオ〉教授の「国家の理想」が当局の忌諱に触れ、全文削除を命ぜられた。この論文は、キリスト教的ヒューマニズムの立場から、国家の理想を愛と正義の行使に見出し、侵略主義に対していくぶんの批判を加えたものにすぎなかつたが、そのために、当局は、あえて矢内原教授を反軍国主義者として、大学から追放したのであつた。同時に、岩波書店発行の同教授著『民族と平和』をも発売禁止処分に附したのである。
 また、昭和十年〔一九三八〕十月には、同じく東大教授河合栄治郎の起訴事件が記録されている。すなわち、かつてはマルクス主義その他極左思想に対しても批判的であつた、その同じ自由主義が反時局的、反軍的であるという理由で、戦時下法廷できびしくその思想が究問され、途中検事控訴などがあって、長き法廷論争の結果、最終審において無罪を宜告されたが、しかしその著『ファシズム批判』『社会政策原理』『第二学生生活』『時局と自由主義』(いずれも日本評論社発行)は発禁処分を受け、出版責任者は出版法違反のカドで罰金刑に処せられたのである。
 それと前後して、昭和十三年三月には、石川達三の従軍小説「生きている兵隊」が出版法違反に問われている。これは、石川が中央公論社特派員として中国戦線に従軍した、その報告作品であつたが、たまたま日本軍にとつて不利な惨虐行為をも仮藉〈カシャク〉なく描いたゝめ、全文削除を受け、作者石川達三、編集人雨宮庸蔵、発行人牧野武夫、印刷人竹内喜太郎は起訴され、同年九月四日石川、雨宮はそれぞれ禁錮四ヵ月(猶予四年)牧野、竹内はそれぞれ罰金刑の判決を受けたのである。
「コム・アカデミー」一派の一斉検挙から「人民戦線一派」および「教授グループ」の検挙を経て、「唯研」一派の一斉検挙にいたる一連の弾圧事件をはじめ、矢内原、河合、石川の各発禁事件は、日華事変前後において、おうむね世の視聴を集めたむしろ代表的事件にすぎないが、おそらく、当時それほど世の注目を惹かなかつた中小削除事件をこれに加えれば、その数は枚挙にいとまがないであろう。【以下略】

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