◎本庄繁侍従武官長と福本亀治特高課長
全国憲友会連合会編纂委員会編『日本憲兵正史』(全国憲友会、一九七六)から、「『本庄日記』の謎」という文章を紹介している。本日は、その後半。
なぜこのような疑問をもつかというと、次のような事実があるからである。この後、岩佐〔禄郎〕憲兵司令官は、蹶起軍将校の説得に出かけて、半蔵門で安藤〔輝三〕中隊の歩哨に停止させられ、将校に会えず悲憤の涙を流すのである。
一方、福本〔亀治〕憲兵少佐の非常呼集によって、東京憲兵隊本部に集った憲兵の中から、特高係りの小田徳四郎曹長は、直ちに本部の乗用車で出発、麹町三番町付近を視察して三宅坂へ行くと、丹生〈ニブ〉〔誠忠〕隊の歩哨に停止させられて戻る途中、半蔵門で安藤中隊に遭遇している。恐らく本庄〔繁〕侍従武官長が半蔵門を左折して英国大使館へかかった直後あたりの時間である。
こうしてみると、「本庄日記」も福本憲兵少佐の証言も、時間的にはほとんど間違いない。すると、「本庄日記」にあるとおり、本庄侍従武官長がかけた岩佐憲兵司令官への電話の意味が、重大な謎となってくる。ところが、三宅坂で安藤中隊に遮えぎられ、淀橋の荒木貞夫大将宅を訪問して、叛乱将校の説得を依頼した岩佐憲兵司令官は、憲兵司令部へ帰ると和田嘉一特務曹長に、
「何故俺のところへ報告が遅れたのだ。どうして報告してくれないのだ」
と涙を流して口惜しがった。これは小田曹長が和田特務曹長から聞いている。
この岩佐憲兵司令官の言葉は実に意味深長である。本庄侍従武官長の電話は、あるいは矢野〔機〕総務部長宅の官舎にかけたかもわからない。むろん本庄はこの時点で岩佐憲兵司令官が病床にあったことは承知している。
さらに相沢〔三郎〕事件後、福本特高課長〔東京憲兵隊特高課長福本亀治少佐〕は毎週本庄侍従武官長に招かれ、武官府において右翼と青年将校の動静を報告している。これは二・二六事件勃発の二日前まで続いていたのである。しかも、報告の際、本庄はまだ福本特高課長の知らない、青年将校の情報までよく承知していたという。これは、本庄が山口〔一太郎〕大尉から受けた報告の内容を、福本特高課長に確認するというやり方であったようだとは、福本特高課長の回想である。したがって、事件勃発とともに参内した本庄侍従武官長は、蹶起将校の動静には、憲兵隊以上に詳しく承知していたとみても間違いではないだろう。これが山口大尉のいう宮中工作であったかもしれない。そして福本特高課長は報告の際、青年将校が蹶起した場合、宮中重臣と、渡辺〔錠太郎〕大将が狙われていることを知らせている。すると、襲撃目標をよく承知していながら、敢て狙われていた重臣を、本庄がひとりも助けようとしなかったのはなぜだろう。山口大尉から本庄への電話があったのは午前五時以前であることは、まず間違いない。さらに憲兵隊は事件勃発を知った時点で、まだ、襲撃目標を完全につかんでいなかったのである。憲兵隊がようやく渡辺錠太郎大将の危険を感じて電話したときには、わずか数分の差で間に合わなかったのである。本庄が岩佐(あるいは矢野)に電話をしたときに、渡辺錠太郎大将が狙われていたことを知らせたならば、渡辺錠太郎大将は恐らく難を避けることができたろう。
「本庄日記」にみる限り、本庄侍従武官長と岩佐憲兵司令官、または矢野総務部長の態度に疑問が残るのは当然だろう。果たして山口大尉から事件勃発の報を受けた本庄侍従武官長は、参内しつつ何を考え、何をやろうとしていたのだろうか。二・二六事件に関する限り、「本庄日記」には最後まで重大な疑問が残されている。その一つに天皇発言がある。
かなり話が込み入っており、かつ、文意が明瞭でないところがあるが、要するに筆者が言いたいのは、「本庄侍従武官長と岩佐憲兵司令官、または矢野総務部長の態度に疑問が残る」ということだろう。
本庄繁侍従武官長については、「態度に疑問が残る」どころではない。娘婿の山口一太郎大尉から、襲撃計画の概要を聞いていたのにもかかわらず、それを阻止しようとする動きは示していない。蹶起が実行に移されたことがわかったあとも、「蹶起」を既成事実とし、その上で、いかに「宮中工作」をおこなうかということしか考えていなかったようだ。
岩佐禄郎憲兵司令官、矢野機総務部長についても、たしかに、「態度に疑問が残る」ところがある。しかし、それを言うのであれば、むしろ問題にすべきは、東京憲兵隊特高課長福本亀治少佐であろう。福本亀治少佐は、「二・二六事件勃発の二日前」まで、本庄繁侍従武官長と情報交換をおこなっていた。襲撃目標のひとつに、「渡辺錠太郎教育総監私邸」があったことも把握していた。
しかし、福本少佐は、蹶起が実行に移されたという連絡を受けたあとも、渡辺邸に電話連絡して避難を勧告するなどの措置をとっていない。蹶起を既成事実とし、本庄侍従武官長による「宮中工作」の推移を見守ろうとしていたのではないか。
これは、断定を控えるが、当時の「憲兵」組織全体に、同じような空気が広がっていたのではないだろうか。
四年以上前に「憲兵はなぜ渡辺錠太郎教育総監を守らなかったのか」(2012・8・11)というコラムを書いたとき、また、本年に入って「佐川憲兵伍長を呼び出した下士官すら特定できない」(2017・1・2)というコラムを書いたときも、護衛憲兵が、渡辺錠太郎教育総監を守らなかったという事実に捉われ、事件全体の「構造」にまで、視野が及んでいなかった。この点を反省するとともに、さらに研究を進めてゆこうと考えている。
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