礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

東京憲兵隊本部特高課外事係を命ぜられる

2017-01-04 03:59:52 | コラムと名言

◎東京憲兵隊本部特高課外事係を命ぜられる

 上原文雄著『ある憲兵の一生――「秘録浜松憲兵隊長の手記」』(三崎書房、一九七二)の紹介に戻る。
 上原文雄は、一九三六年(昭和一一)の二・二六事件の際は、館山憲兵分遣隊に籍を置いており、同事件については、残念ながら、特段の記述をおこなっていない。
 本日は、同書の第二章「青雲の記」のうちの、「東京隊本部特高課勤務」の節を紹介する。

 東京隊本部特高課勤務

 憲兵司令部、東京憲兵隊本部、麹町憲兵分隊は、昭和十年〔一九三〇〕七月に追手町から九段下の竹平町三番地の新庁舍に移った。
 私は、昭和十一年〔一九三六〕九月、東京憲兵隊本部特高課外事係勤務を命ぜられて、館山より赴任したのである。
 外事係となって、最初はホテル関係を担任し、帝国ホテル、山王ホテル、本町アバート、九段アパートなどを回って、外人旅行者や、居留外人の動静視察にあたったのである。
 それまで、外事警察は、出入国外人や外国公館員を対象として、その動静を視察する程度であったのが、防諜対策の必要に迫られ、積極的科学防諜機関として、陸軍省内に防諜課〔ママ〕が設けられ、多数有能な憲兵外事係がその隸下に配属され転出したあとであって、私などその補充として特高課に集められたわけである。
 憲兵隊でも外事係は外事課に昇格したが、もちろん陸軍省防諜機関の指揮下にあったわけである。
(これが後の陸軍中野学校の前身となった)
 憲兵隊外事科は、外国公館を中心とする、対日諜報網の偵察と外国通信員や商社員、旅行客等、外人の動静を偵察して、諜報活勤の探策にあたると共に、公館員や外国人の動きを通じて外事情報の蒐集にもあたっていた。
 つねに警視庁外事課と連繋をとり、諜報探知と情報蒐集にあたっていたわけである。
 その後私はホテル担任からソ連担任となり、河合謙昌班長のもとで勤務することになった。
 昭和十二年〔一九三七〕六月、林〔銑十郎〕軍人内閣のあとをうけて、近衛〔文麿〕内閣が成立した。
 一ヵ月後の七月七日、蘆溝橋における日支両軍の衝突に端を発した戦火は、遂に日支全面戦争に突入した。
 政府は当初、現地解決、不拡大方針をもって臨み、事変悪化の場合を考慮して、十一月に派遣軍の増派を決定した。
 まもなく、北京光華門の『待った男』として有名になった桜井〔徳太郎〕中佐の活躍などもあって、両軍の停戦協定が成立し、一時小康を保ったが、停戦協定に対する支那側の実行がはかどらず、政府の事件不拡大・現地解決の方針にもかかわらず、現地の情勢は刻々と悪化し、拡大しつつあったのである。

 文中に、「陸軍省内に防諜課が設けられ」(下線)とあるが、これは、一九三六年(昭和一一)八月一日に、兵務局が新設され、その所属課として、兵務課・防備課・馬政課の三課が設けられた事実に対応していると思われる。

*大原敦さんのコメントに感謝します
 一月二日のブログで、渡辺錠太郎暗殺事件に関し、一件もコメントを貰ったことがないと述べたところ、翌三日、大原敦さんからコメントをいただきました。大原敦さんに感謝申し上げます。
 森木五郎憲兵少佐の名前が、小坂慶助『特高』(啓友社、一九五三)に出てくるとのことですが、今、手元に同書がなく、のちほど確認してみます。
 たまたま、大谷敬二郎『にくまれ憲兵』(日本週報社、一九五七)を見てみたところ、二〇二ページに、「憲兵部内でも皇道派将校といわれていた、当時牛込憲兵分隊長の森木五郎少佐」とありました。二・二六事件の直前、磯高麿少佐が牛込憲兵分隊長に着任しますが、これは、森木五郎少佐を不適任と判断しての人事だったと思われます。

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