礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

国家の本質は統制機能にある(高畠素之)

2016-07-06 05:02:12 | コラムと名言

◎国家の本質は統制機能にある(高畠素之)

 木下半治著の『日本ファシズム』(ナウカ社、一九三六)を紹介している。昨日は、第七章「日本ファシズムの理論的基礎」の「一」を紹介したが、本日は、同章の「二」~「四」を紹介してみたい(二三九~二四五ページ)。

  二 高畠素之の国家社会主義
 日本における国家社会主義を始めて説いた人としては、明治三十九年〔一九〇六〕頃に山路愛山〈ヤマジ・アイザン〉等の「社会党」の人々があるが、近代的な意味における走りは、高畠素之〈タカバタケ・モトユキ〉である。高畠によれば、「私は国家主義者なるが故に社会主義者である。私は又社会主義者である。私は社会主義者なるが故に国家主義者である」(「批判マルクス主義」)。「……我々の見地からすれば……真の国家主義者たるものは必ず社会主義者でなければならず、真の社会主義者は必ず国家主義者でなければならない……(「国家社会主義大義」)。
 それでは、高畠のいふ国家主義とはそもそも何か?「国家主義とは何ぞ。人類の道徳的、政治的、経済的その他一切の社会生活を通じて、国家を最高の標準とし枢軸とするところの主義主張である。そこで、先づ、国家とば何ぞやといふことが問題となつて来る。」(「マルキシズムと国家主義」)。
 高畠の国家論は、機能国家論であり、国家の本質は、統制機能のうちにあるとなすものである。「国家の本質は統制(支配)にある。統制は搾取に先行する。如何なる社会にも統制の機能が発動する。社会を一つの秩序として見れば、統制は即ち法的秩序であつて……一つの地域的結合社会の発達が進んで、此統制機能及び法的秩序が分化自立したとき、茲に始めて国家が成立する。国家の成立は社会的統制機能の分化した結果である。……此本質的国家の成立後に、搾取被搾取対立の事実が出現する。搾取階級は既存国家の機能及び機関を利用して搾取の維持と被搾取階級の圧伏〈アップク〉とに役立たせる」(「批判マルクス主義」)。
 それでは、国家社会主義革命ば、かゝる搾取階級の手中にある国家に対して、いかなる関係に立つか?……国家にしろ、階級にしろ、その第一義的本質は支配に在つて搾取に在るのではないから、プロレタリアの政権掌握に依つて労働搾取の関係は廃除されても、政治的支配及び国家は廃除されない。ただ、搾取関係と支配関係との結合が分離されて、純粋の政治的支配関係が確立され恢復〈カイフク〉されるといふに過ぎないのである。」(「国家社会主義」昭和九年一月号、「社会主義思想上に於ける観念的傾向と現実的傾向」)。即ち「国家社会主義は、労働搾取の廃止に依つて、真の国家が完成されると説く」(「マルキシズムと国家主義」)のである。
 そして「今や、国家はそれ自身の足を以つて立ち、極めて徹底的に、自己の本質と使命とに一致した行動を探ることが出来る。斯くして国家は、史上比類なき人間精神の高翔と自由及ぴ幸福の増進とを齎らす〈モタラス〉ことになる。これ正に必然の国から自由の国への躍進を意味するのであるが、それはマルクス及びエンゲルスの主張する如く国家の消滅に件ふ必然的結果でなく、寧ろ国家の完成に依つてのみ与へられるところのものである」(同上)。
 高畠以降の日本国家社会主義者の理論は、要するに、この高畠の統制国家論の敷衍〈フエン〉に過ぎないものである。

  三 北一輝と「日本改造法案大綱」
 高畠の国家社会主義論は、原理的には日本ファシスト理論の最高標準を示すものであるが、実際運動に対する影響力からいへば、北一輝〈キタ・イッキ〉の「日本改造法案大綱」に遥か及ばない。北一輝のこの著書は、実に日本ファシスト運動の聖典ともいふべきものであつて、実行派はたいていその洗礼を受けてゐる。五・一五事件の主脳の一人古賀〔清志〕中尉の如きも、公判廷において、この「改造法案」と権藤成卿〈ゴンドウ・セイキョウ〉の「自治民範」から影響を受けたことを述べてゐるし、血盟団事件、五・一五事件の被告はたいてい北の愛読者だったといはれる。殊に軍部方面に支持者が多く、二・二六事件の指導者も、イデオロギー的には多く北の門下である(註一)。
(註一)北自身は、近来この「改造法案」より「進み」、日蓮主義に沈淪〈チンリン〉してゐたとのことであるが、ファシストとしての北の存在は、この「改造法案」を俟たねば説明され得ない。なほ、日本ファシストと日蓮主義との因縁が頗る〈スコブル〉深いのは、研究に値ひする一題目である。〔井上〕日召然り。満川〔亀太郎〕然り。
(以下八〇行削除)
 
  四 権藤成卿と自治論
 血盟団事件及び五・一五事件によつて、権藤成卿の名は、たちまち世人の注意を惹いた。この両事件に関係した多くのものが、彼の「自治学会」に出入してをり、殊に日召の片腕たる古内栄司〈フルウチ・エイジ〉が権藤の借家で捕つたことは、権藤を怪物扱ひにさせるに十分であつた。著者は、勿論権藤成卿とは一面識もないものであるが、写真や、その所説、経歴からみると、何となく一燈園の西田天香と同じやうな感じを受ける。即ち表面上はいかにもトボケた、脱俗的な顔をしてゐるが、その腹の中は、案外、世間も知り、商法の道にも長じた俗物であり、軽く知つてゐる者には宗教的に信頼され、よく知つてゐる者には糞味噌にいはれる、といつた人物ではないかと思ふのである(間違つてゐたら失礼)。
 彼の主著は「自治民範」であり、自治学会は、この書の講義によつてファシスト青年を養成すべく大正九年(一九二〇年)に樹てられたものである。そのほかに「農村自救論」、「君民共治論」、「日本震災凶饉攷」、「八隣通攷」等々がある。【後略】

「四」は、このあと、まだ五ページほど続いているが、割愛。第七章の最後は、「五 安岡正篤、橘孝三郎、大川周明」だが、これも割愛。
 木下半治は、「高畠以降の日本国家社会主義者の理論は、要するに、この高畠の統制国家論の敷衍に過ぎないものである。」、「高畠の国家社会主義論は、原理的には日本ファシスト理論の最高標準を示すものである」と言っている(下線)。日本ファシスト理論においては、高畠素之を最も高く評価していることがわかる。
 北一輝も、それなりに評価しているようだが、八〇行にわたって「削除」がおこなわれているので(自己規制あるいは事前検閲)、詳しい評価を知ることはできない。
 権藤成卿に対しては、かなり評価が厳しい。木下には珍しく、「主観的」な感想を披露している。そもそも、その氏名を、「権藤成郷」と誤記(誤植)していた(引用にあたって訂正した)。

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