礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

「日本ファシズム」の理論はあまりに貧困

2016-07-05 08:44:55 | コラムと名言

◎「日本ファシズム」の理論はあまりに貧困

 一昨日、昨日と、木下半治が、イタリアおよびドイツのファシズムについて解説している文章を紹介した。では、木下は、「日本ファシズム」については、どのように捉えていたのだろうか。
 本日は、木下半治著『日本ファシズム』(ナウカ社、一九三六)から、第七章「日本ファシズムの理論的基礎」の「一 理論の貧困」の全文を紹介してみたい(二三五~二三九ページ)。

 第七章 日本ファシズムの理論的基礎
  一 理 論 の 貧 困
 以上の如く複雑多岐な経路を辿って発展して来た日本ファシズム運動の理論的裏付けは、何うしてなされてゐるか?
 国際的にみてファシズム一般に理論が欠如し、ファシスト自身も「理論よりも実行」を重しとする」と称してゐることは、人々の知る通りである。しかし、運動の基礎を直接、大衆の獲得・組織に置かねばならなくなつた今日、無理論を以てしてはこのことを果たし得ない。民主主義及び社会主義的思想の洗礼を多かれ少なかれ経てゐる近代民衆は、無理論を以て誇る運動を受容れるべく、余りにも成長してゐるからである。
 そこで、外国においても、ファシストは、理論的扮飾に浮身をやつしてゐる。いかなる国のファシズムも、その社会的デマゴキーとしての「社会綱領」及びその理論づけを大衆の前に発表せざるを得なくなつて来てゐるのである。
 かゝる意味において、日本ファシズムも、「日本的」なファシズム理論をもつて現はれてゐるのである。
 ファシズム一般が、理論的にみて甚だ貧弱とされてゐるのと同様に――否、それにも輪をかけて、日本ファシズムの理論は、殆んど検討に耐えないほど貧困である。しかし、いかに貧困とはいへ、苟しくも〈イヤシクモ〉一国の政治の動きに重要な役割を受持ちつゝあるものゝ理論は、これを十分に批判し、その科学的でない所以を大衆に示さなければ、この運動そのものゝ克服は、十分に果たし得ないのであらう。
 とはいへ、本書の目的は、一に〈イツニ〉、日本ファシズム運動発展の客観的な描写にある。従つて、日本ファシズムの理論的批判は、その範囲に入つてゐない。加ふるに、紙数の制限は、彼等の理論の客観的なる紹介・叙述にさへも十分の余白を割き得ない事情にある。そこで、日本ファシスト・イデオローグ(?)たちのうち、運動と不可分の関係のあるものゝみ、ピック・アップして、その理論の外貌を描写したいと思ふ。
 日本ファシズム運動内には、前に縷々述べた如く、大別して二つの潮流がある。即ち、いはゆる純正日本主義派と国家社会主義派とである。ファシズムを簡単に規定して「国家主義と社会主義」との結合であるとなす人があるが、今仮りにこの定義を借りるならば、純正日本主義派の人人は、国家主義を重しとし、国家社会主義の人々は社会主義を以て重しとなすのである。前者に属する人々は――概していへば――従来の反動的国粋主義の陣営から流れ来たつたものであり、後者のそれは社会主義陣営から百八十度の転向をなした人々である。従つて、日本ファシズムの理論には、純正日本主義=皇道主義と、国家社会主義乃至国民社会主義(註一)との対立がある。両者の「理論闘争」の具体的な表現は、日本ファシズム運動の特徴の一つたる分裂の度毎〈タビゴト〉に両者の濫発し合ふ声明書の類〈タグイ〉のなかに、これを見出し得るであらう。概していへば、純正日本主義は、国家社会主義なるものが結局、マルクシズムの擬装したものであり、共産主義にたゞ国家のシャッポを冠したものに過ぎないとする。しかるに、国家社会主義の方では、純正日本主義とは、全体主義、国民主義の名にかくれ、階級闘争に代ふるに階級協調を以てするものであり、反動的な資本主義の走狗であるとなすのである。この「理論闘争」に参加した指導的なイデオローグとしては、純正日本主義陣営においては、赤松克麿、津久井龍錐、北昤吉等、後者としては、石川準十郎、近藤栄蔵、林癸未夫等が挙げられるであらう(註二)
(註一)科学的にいへば、国家社会主義と国民社会主義とは異なるものである。前者は、ラッサーレ、ロドベルツス等のStaatssozialismusである、後者はヒットラーのNationalsozialismusであるべきである。しかし、日本ではNationalsozialismusのつもりで国家社会主義と国民社会主義とを同義に用ひてゐる。敢ていへば、国家社会主義といつた方が正しいであらう。著者は、ナチオナルゾチアリスムスを邦語に移す場合、「国粋社会主義」といふことにしてゐる。
(註二)日本ファシストの「理論」を知るには、赤松克麿の「新国民運動の基調」及び「国民主義と社会主義」、津久井瀧雄の「日本主義の基礎理論」、北昤吉等、祖国会出版部の「国家社会主義批判」、石川準十郎の「マルクス主義より国家社会主義へ」、近藤栄蔵の「無産党出直すべし』、林癸未夫の「国家社会主義論策」等が適当である。
 これらの「イデオローグ」たちのファシズム理論(但しなかにはファシストといはれることを嫌やがり、国家社会主義とファシズムとを対立させて、ファシズムを積極的に排撃するものすらある。(例へば林癸未夫)を一々紹介すればいゝのであるが、いまその余白がないので、日本ファシズムの理論的礎石を置いた人間としての高畠素之、及び五・一五事件より二・二六事件に至る大事件のうちには必ずその名が現はれて来、それらの大事件の裏を、一本の赤い糸の如く縫つて走つてゐる、イデオロギーの供給者としての北一輝、権藤成卿、安岡正篤、及び橘孝三郎、大川周明等の思想を、ほんの少しばかり紹介することにしたい。

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