礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

天皇機関説事件と成宮嘉造

2024-04-13 02:02:01 | コラムと名言

◎天皇機関説事件と成宮嘉造

 1935年(昭和10)の「天皇機関説事件」で、憲法学者の美濃部達吉は、その著書三冊が発禁の処分を受けた。また、不敬罪で告発され、貴族院議員の職を辞した。
 この事件で政治的弾圧を受けた憲法学者は、美濃部達吉だけではない。当時、台北高等商業学校の講師で、『日本憲法概論』(新高堂書店、1933)という著書があった成宮嘉造(なるみや・かぞう)もまた、厳しい政治的弾圧を受けている。
 最近、私は、その成宮嘉造に、「天皇機関説のゆくえ」という論文があることを知った。『桜美林論集 一般教養篇』第6号(1979年3月)に掲載されたものである(39~59ページ)。論文掲載時における成宮の肩書は、桜美林短期大学教授。
 本日以降、この「天皇機関説のゆくえ」を紹介してみたい。ただし、紹介するのは、全体の三分の一ほどになるかと思う。本日、紹介するのは、「1.緒」の前半部分。なお、この論文は、国立国会図書館のデジタルコレクションで閲覧できる。

   天 皇 機 関 説 の ゆ く え      成 宮  嘉 造

 1.緒
 「天皇機関説は,どうなったのか」,と尋ねる人が可成〈カナリ〉ある.私は,曽つて天皇機関説事件で,機関説論者として帝国議会等で排撃され,或は告発を受け,遂に退職になった因縁があるので,今これに答えることとする.
 日清・日露両戦役,大正元年〔1912〕・同13年〔1914〕の憲政擁護運動,第1次大戦を契機として抬頭した政党と戦勝に乗じた軍部との勢力か競合し,軍部は最初は防衛的であったが,大正デモクラシーの撲滅と海外侵略・戦時体制化に向って漸次激進した.機関説事件の前哨は,上杉〔慎吉〕美濃部〔達吉〕論争と昭和5年〔1930〕のロンドン条約における統帥権干犯〈カンパン〉問題であり,次に天皇制軍ファシズムを企画する10年〔1935〕の天皇機関説事件及び翌年の2.26事件と発展して政党は愈々沈退・追従し,戦略は政略を支配する戦時体制に移り,遂にポッダム宣言受諾となった.これにより軍部・軍隊の全廃となり,民主主義が国家再建の理念となり,改憲で国体は国民主権に変り(前文・1条),元首天皇は象徴天皇となり(1条・3条・4条),戦争を放棄し(9条),文民主義を採り(66条),統治大権が消え,統帥権干犯も消えた.
 天皇機関説は,その排撃者軍部の存否又はその認否に拘わらず,それは科学的学説であるから,元首天皇制にも象徴天皇制にも妥当する⑴.【後略】

 (1)宮沢俊義「天皇機関説事件」〔有斐閣、1970〕55頁・3~5頁.「法律学における学説」〔有斐閣、1968〕8頁.

 文中、「ポッダム宣言」とあるのは、原文のまま。成宮嘉造は、この論文において、一貫してこの表記を用いている。

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