礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

「村八分」は明治になってから多発した

2017-09-04 01:16:38 | コラムと名言

◎「村八分」は明治になってから多発した

 この夏、資料を整理していたところ、一枚の新聞の切り抜きが出てきた。日付は、一九九一年五月二七日(月)で、新聞の名前がわからないが、図書館で調べたところ、毎日新聞だった。その九面、読書欄にあった記事である。
 民俗学者の谷川健一〈タニガワ・ケンイチ〉氏の文章である。

シリーズ 私の新古典  *谷川 健一*
  中村 吉治著★日本の村落共同体
 進歩という迷信から解放
 戦後、十年か十五年位の間、知識人の間では、「前近代的」あるいは「封建遺制」を非難する風潮が流行した。それは思想界の主流ですらあった。私はそれを聞くたびに納得できないで、違和感をおぼえずにはすまなかった。
 明治にいたるまでの前近代社会、もしくは江戸時代に代表される封建社会でも、人間は懸命に生きてきたのに、そうした時代に生まれ合わせたというだけで、何かといえば批判の種になるのは、たまったものではないと思っていた。だがそれを大声で言えば、直ちに反動のレッテルが貼られる、そういう時代であった。それに私は進歩的と呼ばれる知識人の前近代、封建時代批判に立ち向かうだけの具体的な思想的根拠をまだ持ち合わせてはいなかった。それでいつも、くやしい思いをしながら、なかば泣きべそをかいたような気持ちで、押しだまっていた。
 そうしたあるとき、偶然に中村吉治〈キチジ〉の「日本の村落共同体」(昭和三十二年刊)を手に取った。それは薄い本であったが、私は眼から鱗【うろこ】が落ちたような体験をした。
 中村によれば、封建制の残存の一つと思われる「村八分」は共同体が確立していた時代に起こったものではなく、共同体の崩壊過程においてだけ生じるものである。つまり明治時代になって起こった現象である。封建遺制と思われ勝ちな村八分は、むしろ近代の所産だというのが中村の主張であり、立論であった。
 明治以降のいわゆる村落共同体と見なされているものは疑似的なものにほかならない。江戸時代までつづいた生産共同体は明治になって分解し、生産の単位は、共同体から各戸へと移行するが、しかし、村の祭をおこなうとか、村の学校をたてるとか、公共的な場での共同体規制は残存する。
 その規制意識は地方有力者の手中ににぎられているのだから、結局は公共的な営為が彼らの利益になるように仕組まれている。もしそれに反対するならば、共同体(じつは疑似共同体)に協力しないという理由で「村八分」にあわされる。生産共同体では共同作業の仲間から労働力をはずすことはたやすくできない。したがって「村八分」は江戸時代には起こりにくく、明治になって多発する。それをあたかも封建時代からの残存のように扱うのは見誤りも甚だしいという。
 この中村の説に勇気づけられて調べて見ると、山陰地方に戦後になっても根強く残る「憑きものすじ」の迷信も、江戸時代よりは明治に入ってからのほうが盛行する。親子心中にいたっては、明治から大正へ、大正から昭和初頭へと幾何級数的に増加する。このような事実をふまえ、私はようやくにして「進歩という迷信」から解放された。その後、柳田国男や宮本常一の著作に親しむようになって、私の確信は更に強くなった。そのきっかけを作ってくれた一冊に私は深い感謝の意を表せずにはおれない。柳田は桑原武夫との対談で「進歩」という言葉を「幸福の増進」という語に置きかえることはできないかと云っている。まことに味わい深い提言である。 (民俗学者)
*『日本の村落共同体』は、一九五七年に日本評論新社から刊行(現在は絶版)

 一九九一年よりも以前に私は、日本評論新社版の『日本の村落共同体』を入手し、一読していた。しかし、谷川氏のような問題意識で、同書を読むことはできなかった。この記事に接して、あわてて本を取り出し、当該部分を開いた。「封建遺制と思われ勝ちな村八分は、むしろ近代の所産だ」という中村氏の指摘に深く頷くと同時に、その部分に着目した谷川氏の思想的センスに感銘を覚えた。
 さて、今回、この記事を再読してみて、もうひとつ気づいたことがある。谷川氏は、ここで、「その後、柳田国男や宮本常一〈ツネイチ〉の著作に親しむようになって、私の確信は更に強くなった」と述べている(下線)。これは、谷川民俗学に関心を持つ読者にとっては、見逃せない一文である。
 平凡社の編集者であった谷川氏が、宮本常一の「土佐梼原〈ユスハラ〉の乞食」(のちに「土佐源氏」)を世に出したのは、一九五九年(昭和三四)のことであった。同年より以前に、『日本の村落共同体』に接し、そののちに、柳田国男や宮本常一の著作に親しむようになったと理解できる。ちなみに、谷川氏が平凡社を退職したのは、一九六七年(昭和四二)で、民俗学の研究を志して、沖縄に向かったのは、一九六九年(昭和四四)のことだったという。
 ところで、記事の最後に、「『日本の村落共同体』は、一九五七年に日本評論新社から刊行(現在は絶版)」とある。新聞社の担当者による注であろう。『日本の村落共同体』は、一九七一年(昭和四六)に日本評論社から新訂版が出た。さらに一九七七年(昭和五二)には、ジャパンパブリッシャーズが、谷川氏の「解説」を付して復刊されている。しかし、一九九一年の段階では、新訂版やジャパンパブリッシャーズ版も「絶版」になっていたという意味か。

 

 

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