礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

この本は国語読本に一大革新をもたらした(西尾実)

2015-12-11 05:49:11 | コラムと名言

◎この本は国語読本に一大革新をもたらした(西尾実)

 ここ何日か、「太郎花子国語の本」(日本書籍株式会社)について、紹介してきた。この教科書は、戦後最初の「検定教科書」として(「国定教科書」の時代が、長く続いていた)、かなり話題になったらしい。国語研究所長の初代所長をつとめた西尾実(一八八九~一九七九)が、この「太郎花子国語の本」について、論評している文章を見つけたので、本日は、これを紹介してみたい。出典などについては、次回、説明する。

 これまでの国語読本は、断片のよせ集めで、一貫した生命のないものであった。形だけは本でも、ほんとうの本ではなかった。「太郎花子国語の本」は、これまでの読本の、この次陥を改めて、太郎花子をはじめ師友・親族・郷党などから成る人閲群像の、人間的成長と、社会的発展の描出でつらぬかれている。さまざまな個性と境遇がかきわけられ、的確な心理分析にも及んでいる。このようにして、明るい人生縮図の展開となり、たのしい可能社会の描出となりえている。野心的な編集であり画期的な成果だといってよい。かって編集された、いわゆる「さくら読本」が、その時代の国語教育に一大進展をあたえたのにくらべて、いまの時代におけるこの「国語の本」は、その意義においてまさるともおとるものではない。
 われわれは、こんどの戦争による自己反省から、またそれを契機とした人間的自覚から、われわれの生きる目標に一大革新をもたらしている。それが、新憲法や教育基本法の底流をなし平和日本・民主日本・文化日本などいう標語の動因をなしていることはいうまでもない。
 ところが、そういう動きは、総合雑誌や有力新聞には反映し、著書・論文には表示せられているにしても、それは大人の社会のことであって、少年の社会には、まだそれが真実におよんでいるとはいえない現状である。少年のよみものといえぱ戦前のものは焦点がはずれていたり、ぼやけていたりするし、戦後のものは、公式主義か感傷主義かで、まだ時代の新しい胎動が、骨格となり血肉となりえたものがない。
 こういう際にあって、この本は、新しい人間像の形成と、きたるべき社会の創造とに焦点をおき、その焦点が学童の心理をつらぬき、季節や場面や人物を定位し活躍させている。そのうえ教材は、一般の小説や少年読物とちがって、教室で、学友同志が話しあいの対象とし、教師を生徒が問答の中心としてはじるところのない形質をそなえていなくてはならぬ。そこには、創作の力量だけでこなしてしまえない、重要かつ微妙な特殊条件がある。
このような特殊条件をみたしたながら、児童期から少年期への心理発展をとらえて、人間愛の、民族愛の、人類愛の発展をえがき、利己の否定と利他の実践によってのみ開かれてくる、明るい人生と、たのしい可能社会を創造して、学童の目と心とを見はらさせるものがある。さすがに教科書編集に年期を入れた名編集者の業績であるとうなずかせられる。
 以上の指摘は、この「国語の本」は、国語の本であるよりも、思想の本であり、社会科の本であろうという印象を、まだよんでいない人々にはあたえるかもしれない。しかし、この本をよんだ人々は、また、よまなくても編集者井上〔赳〕氏をしる人には、そういう理解はしないにちがいない。何となれば、この本を一読すれば、編集者は、よむことに即して、かくこと、話すこと、きくことの、言語生活の全面にわたる関連学習を展開させる材料とし、教育材料とすることを根本目的として、細心の工夫をこらしているし、また、編集者井上氏をしる人は、氏がかって文都省にあって、国語読本の編集責任者であり、編修課長であった時、時代の波は、国語教育を思想教育にしてしまわなくてはやまない形勢になったさい、省内において、国語の教は、あくまで国語による、国語のための教育でなくてはならぬという立場を固守してゆずらなかった、国語教育のかくれた防波堤であった経歴からおして、わたくしのこのような特質指摘が、そういう誤解には導かないであろう。
 この本は、われわれの言語生活を契機とした、来るべき人間像の形成と可能社会の創造とにおいて、国語読本に一大革新をもたらしたものであるとしなくてはならぬ。

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1 コメント

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歴史を乗り越える試み (尾崎)
2015-12-12 09:47:00
当時も今も画期的な考え方だと思いました。「国語の教(育)は、あくまで国語による、国語のための教育でなくてはならぬという立場」は、当時の問題解決学習とか生活単元学習とか称して、教科の枠を取っ払ってやったために、ついに学力低下批判を乗り越えることができず、結局教科単位の学習に戻ってしまったという歴史を乗り越える試みを示唆していると思います。井上氏プロデュースによるこの本は、問題解決学習を「国語」の教科内で実現してしまう構想だったことが分かりました。これは、現場の悩みをよく知っていなければ湧いてこない発想だと思います。昔はそんな官僚がいたんですね。
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