礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

神田喜一郎『日本書紀古訓攷證』1974年私家版

2015-06-03 06:51:11 | コラムと名言

◎神田喜一郎『日本書紀古訓攷證』1974年私家版

 唐煒さんの著書『日本書紀における中国口語起源二字漢語の訓読』(北海道大学出版会、二〇〇九)によって、東洋学者の神田喜一郎(一八九七~一九八四)に、『日本書紀古訓攷證』という著書があることを知った。
 一昨日(一日)、図書館に赴き、『神田喜一郎全集 第二巻』(同朋社出版、一九八三)を閲覧した。同巻には、『続東洋学説林』と『日本書紀古訓攷證』の二篇が収録されている。同巻には、「第二巻 後記」というものが付されており、ここに次のようにあった。

 第二巻 後 記
 この巻には
  続東洋学説林
  日本書紀古訓孜證
の二書を収めた。
『続東洋学説林』については、この書の後記に委しい〈クワシイ〉ことを書いておいたので、ここに更めて〈アラタメテ〉記すことは何も無い。
『日本書紀古訓孜證』は、最初、昭和二十四年一月二十日に奈良県丹波市町〈タンバイチチョウ〉の養徳社から発行したもので、それには書名に「漢土の訓詁学より見たる」の副題を付しておいた。さうして凡例として
《一、本書は余が嘗て〈カツテ〉各種の雑誌並びに論文集等に発表せし日本書紀の古訓に関する研究を、総べて綜合すると共に、新に起草せるものを加へて一書となししものたり。
 一、既に発表せし研究も、本書に収むるに当りて改刪〈カイサン〉補筆を加へたる所多し。本書を以て定稿とす。
 一、本書の題簽〈ダイセン〉は内藤乾吉〈ケンキチ〉学士に揮毫を懇せる〈ネンゴロ〉ものなり。ここに特記して学士に深謝の意を表す。
 昭和二十二年十月》
の三条を掲げておいた。大体のことはこれでわからうと思ふ。
 その後、昭和四十九年七月二十日に、新しく改訂を施し、私家版として極く少部数を印行した。それには左の如き凡例四条を掲げておいた。
《一、本書は、昭和二十四年、奈良の養徳社より一度出版せるも、その後の研究によりて新たに改刪補訂を加へ、茲に〈ココニ〉再び印行するものなり。
 一、巻首に掲げたるは先輩武内宜卿義雄博士の書蹟にして、向きに〈サキニ〉本書を出版せる際、余に寄せられしものたり。博士道山〈ドウサン〉に帰して墓木〈ボボク〉已に〈スデニ〉拱す〈キョウス〉。いま博士を偲びて、これを巻首に掲げ、以て序文に代ふ〈カウ〉。
 一、本書の題簽〈ダイセン〉は新たに内藤士健乾吉教授に揮毫を懇せるものなり。特記して深謝の意を表す。
 一、余、日に頽齢、老懶〈ロウラン〉殊に甚しく、且つ視力衰へて、参考図書の検索、本文の校正等、その他万事に亘りて、皆意の如くなる能はず。此次〈コノタビ〉、再印に当りて、福田良輔・小島憲之・高橋正隆・水田紀久・石塚晴通・片岡了・横田悳の諸氏より多大の援助を蒙りたり。ここに芳名を録して、厚く謝忱〈シャシン〉を表す。
  昭和四十八年十月十六日》
 いま本全集は第二版に依拠して収めたが、本文の他のものは、諸般の都合上、すべて割愛した。
  昭和五十八年八月三日  神田喜一郎

 さすが東洋学の泰斗だけあって、言葉が難しい。「道山に帰る」は、道教の用語であって、亡くなることを意味する。「墓木已に拱なり」とは、墓に植えた木が両手で抱えるほどになった、つまり亡くなって年月が過ぎたという意味である。「此次」は、「今回」という意味である。
 文中に、『日本書紀古訓孜證』の改訂私家版(一九七四)に言及しているが、この本は、国立国会図書館にも架蔵されておらず、閲覧は難しそうである。ただし、『神田喜一郎全集 第二巻』で、読むことができる。
 神田によれば、改訂私家版は、初版に「新たに改刪補訂を加へ」たものだという。だとすると、どのような改訂がなされたのかが気になった。なぜ気になったのかについては、次回。

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