礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

高麗氏の宝物史料は1259年の出火で焼失

2017-09-27 04:17:39 | コラムと名言

◎高麗氏の宝物史料は1259年の出火で焼失

 高麗明津編『高麗郷由来』(高麗神社社務所、一九三五年七月三版)を紹介している。本日は、その五回目。本日は、昨日に引き続き、「高麗郷由来」を紹介する。昨日、紹介した部分のあと、改行して次のように続く。

 高麗王の武蔵野入りは、高句麗滅亡を距る四十年後で、王も可なりの高齢であつたであらう。高麗郡に着くや、居を日高市大字新堀字大宮の、今社殿の在る所に卜〈ボク〉して、全郡を統べ〈スベ〉られたが、其の後幾〈イク〉星霜を経、某年某月を以て、遂に日本に於ける新封土の高麗に逝いた〈ユイタ〉。故国を去る時は、日本の援け〈タスケ〉を借り、義軍を率ゐ故土に還つて光輝ある高句麗王国を再興せん、と心中固く期したことであらうが、時勢の推移は如何ともし難く、故国回復の希望も全く絶えて、武蔵野の一隅にあへなくなられたのであらう。其の心事は実に聞く人の暗涙を誘ふのであるが、但だ、朝廷の優遇が尋常でなく、且つ郡民の尊敬を一身に集めた事は、王の家系と、功績と、人格と、慈愛とに因るものではあるが、せめてもの慰めであつたであらう。有為の才能を有し乍ら、富貴栄達〈フウキエイダツ〉を願はずして、一意郡民の幸福を謀り、一身を犠牲にせられた首長高麗王の訃〈フ〉を聞き伝へた高麗郡民は、貴賤老若悉く来つて其の卒去を悲しみ、泣いて尊骸を葬り、又霊廟を建てて高麗明神と崇めた事は、高麗氏系図に詳か〈ツマビラカ〉である。
 国難を避けて、東国武蔵の一隅に、せめてもの安住地を見出した高句麗亡命の王臣一同が、故山扶余〈フヨ〉の地を偲ぶよすがにもと、秩父連山を後にして遥かに大武蔵野を展望する高麗の郷を選んだのは故あることと言はねばならぬ。
【このあと、約四ページ分を割愛】
 高麗氏は、若光没後、長子家重が家継いで以来、今日まで実に五十七代嫡々相伝へ、連綿として正系を保つてゐるので、当然幾多の史料が保有されて居るべき筈であるが、惜しい哉〈カナ〉「正元元年《一二五九》十一月八日大風時節出火系図□高麗持来宝物多消失。因之一族老臣高□□、新井、本所、新、神田、中山、福泉、吉川、丘登、□□、大野、加藤、芝木、等始高麗百苗相集諸家故記録取調系図記置也」と高麗氏系図にある如く、貴重な宝物史料が災禍の為めに概ね焼け失はれて、現在に伝はるものの甚だ尠いのは遺憾の至りである。【このあと、約三ページ分を割愛】
 高麗氏系図は別に全文を掲載するが、高麗氏先世の事歴の大略を挙ぐれば、次の如くである。
 高麗氏は、若光王姓を賜はり、蔭位〈オンイ〉二世にして庶流となつた。若光卒して長子家重世を継いだ。十四代一豊の時、高麗明神に大宮号を許され、高麗大宮明神と号し奉り、同時に高麗氏は神職となって大宮司と称した。二十三代純秀は、園城寺〈オンジョウジ〉の行尊〈ギョウソン〉が、諸国行脚の途次、高麗明神に杖を留めた際に、その勧めにより、修験道に入り、高麗寺麗純と改め称した。
  参考 篠井【さゝゐ】観音堂寺記の内に「七十四代鳥羽帝之御宇永久年中園城寺行尊欲再開小角《役小角》之旧迹経歴諸山下東方為訪高麗明神之旧祠路出于此即逢行阿問其所由云々」の句がある。
麗純に五人の子があったが、第三子高純が家を継ぎ、其弟禅阿阿闇梨が下野足利(小俣)鶏足寺政所となつた。鶏足寺は東大寺の定恵〈ジョウエ〉和尚が勅命を奉じて建立したもので、当時海内有数の名刹であつた。
  参考 中央史壇昭和二年《一九二七》一月号文学博士宮地直一〈ミヤジ・ナオカズ〉氏「高麗明神の大般若経に就いて」の文中次の一節がある。「鶏足寺は此〈ココ〉に言ふ如く下野足利郡小俣村にある真言宗の巨刹で、古来東国に於ける有数の霊域として又一面学問的道場とせられたところ、系図にいふ禅阿は、同寺に蔵する弘長三年《一二六三》二月在銘の洪鐘(国宝)に「建保乙亥(三年)《一二一五》僧禅阿勧進諸方三尺鋳之」とあるものと同一人で、又慶弁は禅阿の縁故から、此所に足を留めて浄行を専らにしたのであらう」【以下、次回】

 途中、二か所、諸割愛した部分があるが、気になる方は、ネット上で、ブログ「韓郷神社社誌」の「②『高麗神社と高麗郷』」を参照していただきたい。

*このブログの人気記事 2017・9・27(5位に極めて珍しいものが入っています)

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