礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

フォッカー機で大阪から東京まで飛ぶ(1935)

2017-09-13 02:54:12 | コラムと名言

◎フォッカー機で大阪から東京まで飛ぶ(1935)

 先日、『日本切手精集――村田守保コレクション』(日本郵諏出版、一九七八)という本を買い求めた。村田守保〈モリヤス〉さんという切手蒐集家のコレクションを写真で紹介、解説した本である。惜しいことに、写真は、表紙カバーを除いて、白黒である。表紙にも背表紙にも編者の名前がないが、奥付には「編集人 水原明窓」とある。「あとがき」も水原明窓が執筆している。世界的な切手蒐集家である水原明窓〈メイソウ〉編の本と考えてよいだろう。
 村田守保さんは、一九一三年(大正二)二月生まれで、すでに故人。しかし、この本が刊行された時点ではご健在で、巻末に「わたしの収集50年」という文章を寄せている。
 本日は、この「わたしの収集50年」から、「青年時代の収集」の章の、「はじめて飛行機に乗る」という節を紹介してみたい。

  はじめて飛行機に乗る
 懸賞に当選 昭和10年(1935)9月9日、私は夢のような経験をしました。実は飛行機に乗ることが、できたのでございます。それは、ライオン歯磨本舗で、販売促進のために行なった懸賞で、私ははからずも、特賞に当選したからでございます。
 懸賞といっても、別にむつかしいことをするわけではなくて、ただライオン歯みがきのチューブ入の箱に、住所氏名を書いて送ればよいのでございます。一人が何枚応募してもよかったので、たくさん買って、たくさん箱を送れば、それだけ当選の率も高いというわけでございます。町内に北川薬局という、奥さんが薬剤師の薬屋さんがございまして、私はその奥さんに勧められて、数枚応募しました。
 結果は特賞の<空の旅>に当選いたしまして、ライオンから直接連絡がございまして、北川薬局の店先にも、そのことがデカデカと貼りだされました。そのころはもちろん、飛行郵便の収集に熱をあげているまっ最中ですから、まったく夢かとばかり驚き、それこそ欣喜雀躍というか、手の舞い、足の踏み所を知らずという、言葉のとおりでございます。
 搭乗する日と場所は、東京か大阪かということでしたが、私は9月9日の大阪からの第4便と希望いたしまして、岐阜=大阪間と、東京=岐阜間の汽車賃も、副賞としていただきました。台風シーズンのころですから、心配しましたが、幸い天候にも恵まれ、至れりつくせりの空の旅でございました。
 搭乗日の前夜、閉店を待って岐阜駅から夜行列車で、大阪駅には翌朝早くつきました。はじめての大阪でしたので、あらかじめ調べておいたプランどおり、中之島や大阪城、四天王寺と見物して、心斉橋筋に出て、林勇〈ハヤシイサム〉スタンプに立ちより、切手を少々買いまして、梅田にほど近い堂島ビルの、日本航空輪送KKで、搭乗の手続きをとりました。
 6人で満席 待つほどもなく、乗用車がきて木津川尻〈キヅガワジリ〉飛行場に着きました。急いで大阪中央局木津川尻分室にとびこみ、集印帳に記念印を押し、外に出てみると、写真でおなじみの、フォッカー・スーパー・ユニバーサル機が、目の前に見えます。乗組員は、操縦士と機関士のほかに、エァーガールさんの3人で、乗客は夫婦づれの外人さんと、会社の重役タイプの人が3人で、私を入れて6人乗りは満席でございます。私の席は機首に向って右側の列の一番前で、窓から外をみますと、車輪の見える位置でした。
 出発時間の12時10分には、すでにプロペラは回転して、係員が外から扉に、鍵をかけてしまいました。機が全速力で走り出すと、滑走路が凸凹【でこぼこ】なので、ひどい震動でざいます。腰掛けにつかまって、車輪のところを見ていると、地面がどんどん後ろへ走っていきます。なんだか気持が変になり、もしかすると、これで地面ともお別れかも知れない、というようなことを考えましたが、気がつくと地面と車輪がみるみるうちに離れていきます。振動はなくなりましたが、エンジンの音がやたらとやかましくて、乗るときに渡されたサンドウイッチと牛乳、それに耳せんがございましたので、早速これを耳にはめました。
 上空にあがれば大阪湾がひと目で、船がおもちゃのように浮んでいます。まるで箱庭をみるようで、思わず歓声をあげました。琵琶湖も手にとるように見えます。奈良県の上空では、木の繁茂した山がどこまでも重なり、しばらくして伊勢湾の上に出ました。鈴鹿山脈も幸いに、エァーポケットもなく飛び越えまして、機は高度を下げると、名古屋飛行場に、大きくバウンドしながら到着しました。
 10分間の休憩の後、東京に向って飛びたちました。すぐ下に蒲郡〈ガマゴウリ〉や、美しい海岸線が続きまして、手もとの航空地図と見くらべて、少しも違いがないことに感心していますと、前の操縦室の扉が開いて、エァーガールが首を出し、紙きれを渡してよこしました。見れば鉛筆書きで「左前方に富士山が見えます」とあります。それを後ろの座席へ廻せと合図しております。
 高度は平均3,000㍍で、右側にいる私には、富士山なんかはちっとも見えません。箱根の芦の湖が見えたと思ったら、ガクッと機が下がり、ハッとしました。エァーポケットで、前の扉の上にある高度計が、サッと下がるのがわかります。これを3回ばかり体験させられました。
 羽田空港で 関東地方へ進むと、風速が強いらしくて、機はときどき、ひどく揺れ動き、外人の婦人が奇声をあげるのが聞えます。ふと気がつくと、右窓が青空で、左窓は一面の芝生でございます。そうして、かたかなで「トウキョウ」と白く文字が浮いて見えます。ああとうとう、東京へきたのだなと、嬉しさがこみあげてまいりました。
 午後3時、旅客機はエァーポート・オフイスと書いてある、建物の近くで止まりました。大阪・東京間を2時間50分で飛んだわけで、いまの新幹線なみではありますが、その当時としては、考えもしない早さでございます。私以外のお客さんは、そそくさと事務所へ行ってしまいましたが、お上【のぼ】りさんの私は、はじめて見る羽田空港を、くまなく見渡していますと、写真屋さんがきまして記念にというので、フォッカー機の前で撮ってもらいました。よい思い出でございます。
 事務所の中に、東京中央郵便局・飛行場分室がございますので、集印帳の木津川尻分室の消印の横に、この分室の消印を押してもらいまして、日本航空輸送のサービス自動車に乗って、当時の芝桜田本郷町(いまの田村町)の飛行館まで送ってもらい、私の「空の旅」は無事終了したのでございます。
 私は航空券を記念にしたいから、用済みになりましたらぜひほしいと、営業所にお願いしておきました。そのかいあって、後日ていねいな言葉をそえて送って下さり、いまでもたいせつに保存しております。なお当時の旅客機は、発着時のベルト着用などという設備は、ございません。また、エァーガールさんというのは、今のスチュアデスのように、ニコニコしたり、しゃべったりいたしません。乗客には口もきかず、なんにもしていませんでした。どうも操縦室の用だけを足していれば、よかったようでございます。
 10日間の「東京の休日」 待望の東京にきた私は,まずは何はさておいても、文通で親しい伊東由巳さんを、上目黒のお宅におたずねすることにして、東京見物はあと廻しにいたしました。伊東さんとの交際は、≪趣味日本≫という神戸の三條博さんが、昭和8年12月に創刊された雑誌に、伊東さんが9年8月号から「航空郵券20年史」を寄稿されたことに始まります。航空カバーに熱をあげていた私は、三條さんを通じて、伊東さんと文通をはじめたわけでございます。それ以来、今日までの43年間、伊東さんが台湾の屏東陸軍病院に勤務された間は別として、長いおつき合いをさしていただいております。
 とにかくその日は、一日中趣味談に花が咲いたことでした。また、中目黒の金雲夏さんという、農大の学生さんを訪問したり、銀座6丁目にございました銀緑館に、早山忠康商会をたずねて、かねて定評のツェッペリン伯号が運んだカバーを拝見して、その在庫の多いのにはドギモを抜かされました。私は「飛行試行」切手がほしいといいますと、たくさんあるから、自分の好きなのをお取りなさいと、ブックを出されましたので、センターのいい、1½ 銭と、3銭を選んで、カタログ価の8掛ぐらいの、7円ほどで買ったと記憶しております。
 銀座の表通りに夜店が出ております。歩いていると、おばさんが店番をした切手屋さんがございましたので、立寄って貼込帳の中から、安い旧小判の使用済を、何枚か拾ったのが、これが池田忠治商店ということを、ずっとあとから知りました。後年、私が東京へ移転いたしましてからは、よくこの露店へ立寄ったものでございます。
 下谷黒門町〈シタヤ・クロモンチョウ〉の、岡田商店にもいってみました。そのころは先代の岡田弥太郎さんが店におられて、私は記念切手の使用済を、何枚か買って帰りましたが、なつかしい思い出でございます。
 特別にいただいた休暇で、東京には10日間ほど滞在いたしまして、その間に東京見物もいたしました。とても気のきいた従兄〈イトコ〉に案内され、まず二重橋から泉岳寺と、まぁお上りさんが見たいところは、全部案内してもらいました。なかでも浅草のカフェーが、なんといっても楽しうございました。
 岐阜へ帰って、型どうり主人にお礼とお詫びを申しますと、主人は例の如くニコニコしながら、どうだ、東京の女はみんなきれいだったろう、端唄〈ハウタ〉のひとつも教わってきたかい、などといいながら、横目で御新造【ごしんぞ】さんを見て、ごきげんでした。

 村田守保さんは、このとき、満二二歳の青年で、岐阜市内の呉服店の店員だった。
 同書の三九八ページには、写真が二枚あって、一枚には、「このときの航空券」、もう一枚には、「羽田での記念写真」というキャプションがある。
 航空券には、「M 村田 守保様/岐阜市神田町七丁目笹太方」、「大阪 → 東京/¥30円」、「記事・ライオン当選第30号」などの文字が見える。「笹太〈ササタ〉」というのは、当時、村田さんが勤めていた呉服店の名前である。
 記念写真は、フォッカー・スーパー・ユニバーサル機のプロペラの前に立つ和服姿の村田青年。フォッカー機のプロペラは二枚羽根、そのうしろに、星型エンジンがある。放射状に配置された各気筒がムキ出しになっている。
 四〇二ページにも写真があり、「東京旅行(昭和10年)のときの集印帖から」というキャプションがある。集印帖には、切手、消印、スタンプが並んでいる。

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