礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

七尾から羽咋までの切符で上野まで「乗越し」

2017-09-15 02:28:59 | コラムと名言

◎七尾から羽咋までの切符で上野まで「乗越し」

 一昨日、昨日に続いて、『日本切手精集――村田守保コレクション』(日本郵諏出版、一九七八)から、村田守保さんの「わたしの収集50年」という文章を紹介する。
 本日は、「戦時下の東京で」の章の、「よしとの結婚」という節の全文、および、「終戦4ヶ月前に召集」という節の最初の部分を紹介してみたい。
 
  よし との結婚
 昭和17年(1942)1月のこと、取引先の池田さんが、私に嫁の話をもちこみました。日ごろからなんとなく頼りない人なので、私はその話に、気乗りしなかったのでごさいますが、それから半年以上もたちましてから、その嫁さんのお兄さんが尋ねてまいりまして、池田さんでは話が通じないからと、なかなか積極的でございます。
 まぁその結果、改めて池田さんの家で、お見合いということになりまして、その日を震災記念日の、9月1日にしてくれということでございます。実は、この兄妹は姉さんの嫁ぎ先に同居しているので、その日なら周囲にわからぬように、家を出やすいというわけです。
 さてその9月1日に、池田さんの家へいきますと、見合いの相手は、4つぐらいの女の子を連れてきておりまして、子持ちの見合いというわけでございました。子連れの女性が、いまの妻の、よしでございまして、その子は姉さんの末子ということが、池田さんの紹介でわかりました。二人の視線は、まぁOKということになっちまいまして、連れだって表へ出て、市電に乗るのを見送ってから、帰ってきました。
 それからいろいろと曲節がありましたが、縁がありまして、その年の11月ごろに話がまとまり、来春に挙式という段取りとなったのでございます。ところが、戦争1周年の12月8日に、くしくも私に徴用令状が舞い込みまして、12月15日に佃島の造船所へ、入社せよということでございます。そして当分の間は、寮生活が続くことになりますので、私は意を決して、婚約を解消しようと思いましたが、仲人の松下さんご夫妻は、それならば徴用の前に、仮祝言〈カリシュウゲン〉をということになりまして、12月13日に私の家で、内輪で結婚式を挙げたわけでございます。普通ならこれでハッピーエンドですが、現実はこれから、新妻のご苦労様の連続が、はじまるのでございます。
 南方占領切手の収集 世帯を持った3日後に、私は徴用工として石川島造船所に入社させられ、晴海の埋立地で寮生活となって、連日は兵隊教練ばかり。3ヵ月たってから、物資配給係要員として、勤務することになりました。
 そのころ≪京寸≫誌の武田修さんは、有楽町の毎日新聞社で、参事をしておられましたが、南方の派遣員から送られてくる、スマトラ方面の加刷切手を≪京寸≫誌上で発表され、当時の収集家の唾涎〈スイゼン〉のまとでございました。
 私は工員として、ときどきお酒の配給がありましたが、下戸〈ゲコ〉でございますので、これを酒豪の武田さんと、切手に交換をすることにいたしました。毎日新聞社に武田さんをお訪ねするたびに、南方加刷切手がふえていきました。いまでも、それらの切手は、アルパムに収まっており、意外と珍しいものが多いようでございます。
 たしかこのころだったと思いますが、収友の川合幹夫さんが、民政部要員としてマレー方面に出張されました。そしてマレー半島の日本文字加刷の占領切手を、いろんな種類の大きなブロックを、たくさん送ってよこされました。そこで、南方切手会の名で希望者に頒布し、その代金は麻布・市兵衛町(まだこのような明治調豊かな町名が残っておりました)の、川合さんの留守宅へ、お届けしたことがございますが、楽しみごとの少なくなった当時のことですから、皆さんにも大へん喜ばれました。
 東京大空襲と当時の切手 東京に初空襲があったのが、この年〔1942〕の4月18日でしたが、それから2年半は無事で、19年(1944)の11月から、20年8月までの9ヵ月間は、毎日のように空襲がありまして、実に106回に及んだと記録されております。なかでも20年(1945)3月10日の大空襲は、それまでにない大規模なもので、夜中の0時15分から2時間半の間、150機のB29の波状爆撃を受け、東京の中心から、東南方面一体にかけて、焼きつくしましたが、幸いなことに私の家は免れました。
 徴用3年目にはいっておりました私は、もうこの頃は家から造船所に通勤しており、この朝も6時に家を出て、佃島まで自転車で通いましたが、行けどもゆけども、見渡すかぎりの焼野原で、電線はたれ下って道をふさいでいます。焼けこげて丸太ん棒のような人が、本所から深川にかけてたおれております。こりゃたいへんだと驚いて、急拠私は妻子と荷物を、能登の七尾〈ナナオ〉市の親類に疎開させました。
 越えて4月13日に、夜遅くから夜中の2時半までの大空襲があって、こんどは東京の北西方面に向けて、一面に焦土と化したのでございます。この日は北風が強く、私は荒川の川ぞいで、南の方から一列横隊のB29が、北に向って焼夷弾を順々に落していくのを、ただ呆然と見ておりました。前の道路まで焼夷弾が落ちましたが、その次は幸いに、河原の湿地帯に落下しましたので発火せず、またも焼け出されを免れました。東京の下町は、見渡すかぎりの焼野原となりまして、朝夕二階の窓から、富士山が見える風景となったのでございます。
 昭和20年ごろは、切手も制限売りで、入用なだけしか売らない方針のようでした。私は石川島造船所から帰る途中に、東京中央局に立寄って、需要の多い乃木2銭を求めることを、しばしばやっておりましたが、終戦後、使い残りの2銭に、東郷7銭と同じ色で、目打が単線12のものがあることを見つけました(142ページ写真)。
 この切手の単線12は、ふつうは淡紅色が多く、次に茶がかった濃紅色のものがあって、7銭と同じ「朱色」のものは、大へん珍しいようでございます。これらは3月10日の空襲で、切手倉庫が焼けるその前に、郵便局に配給された分だけ売られたものと考えられます。昭和切手の収集をされる方がふえましたが、この朱色乃木2銭の、単線12と、同じく暗い朱色の糊つき無目打が難物で、その上これらの使用済や、エンタイアとなると、なおのこと、頭の痛いところでございます。

  終戦4ヵ月前に召集
 召集令状 東京がほとんど焼野原となった、昭和20(1945)の、5月5日にとうとう私にも召集令状がまいりました。七尾にいる家内のよし子に知らせると、すぐ帰京すると、到着の日時を知らせてきました。当日私が上野駅にいくと、列車が着いて、長女喜美子を背負った家内が、「お父さん,お父さん」と連呼しながら、改札係があっけにとられている間に、出てきてしまいました。入隊前に会えるとは思わなかったので、嬉しさがひとしおだったのでしょう。
 しかし、よくまァ長距離切符が買えたなァと思って聞くと、最初は七尾駅で事情を話しても、そんなことは毎日のことで、キリがないからと売ってくれず、次の羽咋【はくい】までは切符を売っているので、それを買って乗車して、そのまま乗越しで、上野まできてしまった。というわけで、改札係にもとがめられなかったのは、幸いでございました。
 新種の発見 私の入隊の日には、如水会が焼残りの千束池〈センゾクイケ〉の、林木発さんのお宅で開かれ、そのときある収集家の方が、乃木2銭の、裏糊のついた無目打10枚群を出品して、大きな話題となりました。その人がいうには、午前中に渋谷局で買ったというので、何人かの方がその足で渋谷局へゆき、制限売りをしている2銭切手の無目打を、皆さん田型ぐらいずつ入手されたと、大川〔如水〕さんは証言されています。【以下、略】

 村田さんの妻のよしさんは、羽咋までの切符で上野まで来たわけだが、精算はおこなっていないようだ。したがってこれは、「乗越し」と言うよりは、「無賃乗車」と言うべきであろう。それにしても、なかなか大胆な女性である。
 さて、四一七ページには、「結婚記念(昭和17.12.13)」というキャプションがついた写真がある。村田守保さんは黒の国民服、妻のよしさんはオシャレな和服である。このとき、守保さんは、二九歳。苦み走った、なかなかの好男子である。
 四一八ページには、「造船所から妻宛の速達便(昭和18.1.12)」というキャプションがついた葉書の写真がある。新佃島の石川島造船所の守保さんから、足立区千住寿町のよしさんあての速達郵便である。宛名は、「村田よし子殿」と、「子」がついている。消印の日付は、キャプションとは違って、「18.1.27」。2銭の官製はがきに、「大東亜一周年」の記念切手、「2+1銭」一枚、「5+2銭」二枚の、計三枚が貼られている。速達料金は十二銭だったということだろう。
『日本切手精集』という本については、村田守保さん「わたしの収集50年」という文章以外にも、いくつか、紹介してみたい文章がある。しかし、明日は、いったん、話題を変える。

 
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