礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

見合いの席に「ボタ餅」が出たときは注意

2017-09-14 01:42:55 | コラムと名言

◎見合いの席に「ボタ餅」が出たときは注意

 昨日に続いて、『日本切手精集――村田守保コレクション』(日本郵諏出版、一九七八)から、村田守保さんの「わたしの収集50年」という文章を紹介する。
 本日は、「戦時下の東京で」という章の、「日本郵便切手会と東京の会」という節を紹介してみたい。
 村田さんは、一九三九年(昭和一四)六月に、岐阜市の呉服店「笹太」の店員をやめ、東京足立区に引っ越して、金属装身具商に転じたという。

  日本郎便切手会と東京の会
 日本郵便切手会へ入会 上京しまして、住居が落着きますと、そこは独り身の気軽さと申しますか、文通で親しくなっておりました、皆さんのお誘いで、早速にJPCという、切手の会の例会に出席したり、また当時、活動を始めたばかりの、日本郵便切手会の事務所へ、ときどき顔を出すようになりました。
 日本郵便切手会は、外国のエージェンシーをまね、昭和13年(1938)の暮に、逓信省〈テイシンショウ〉のなかに設立された外郭団体で、いまの切手普及課と、切手普及協会を合わせたような、仕事をしており、会員制をとって、会長さんが三井高陽〈タカハル〉さんでございました。この時期は、ちょうど第1次昭和切手も、ほとんど出揃って、特殊切手にはグラビア刷りが、採用され始めたころでございます。
 私は上京をきめた、14年〔1939〕の春になって、入会させていただきましたが、はからずも500番という結構な会員番号を頂戴いたしました。切手会では、雑誌≪郵便切手≫を会員にくばり、事業として、新発行の切手の頒布、それの初日カバー製作、中国占領地(のちには南方も)の切手の、取次ぎ販売に力を入れておりました。切手の入手の方は、その筋のお声がかりもあって、自由でございますから、収集家が門前市をなす有様でございました。
 思い出しますと、こんなエピソードがございます。話は少し先きのことですが、和15年〔1940〕のある日のことでございます。私は熊沢義彦という方からお呼び出しを受けました。この方は当時YMCAなどで毎月例会を開いておられた、当時の東京の代表的な切手の会である、JPCという会の幹部のお一人で、私ごとき田舎出のぺいぺいは、とてもじかに口をきくことすらどうかという、存在の人でございます。あった場所というのが、鶯谷〈ウグイスダニ〉駅の近くの「根岸」という立派な料亭でございまして、仲居さんの案内で、奥まった、かなり大きな部屋へ通されました。
 こりゃ大へんなとこだなと思いながら、部屋に入りますと、そこには熊沢さんのほかに、いま小判切手の収集で有名な金杉台三さんと、下高井戸〈シモタカイド〉の切手屋さんの前羽真吾さんが、大きな座卓の向うに座っておられます。いったい何事だろうと、思わず緊張いたしますと、まず料理が出て、一献かたむけながらの話というのはこうでした。
 中国の日本占領地で発行されている、河北の大字加刷の½ 分【ぶん】切手は、北京版と、商務版の透【すか】しありと、なしの3種類あるんだが、いま日本郵便切手会で頒布【はんぷ】している½ 分は、現地で入手できない。我々はそれが入用であるから、君が切手会へ行って、なるべくたくさん、買ってきてくれないだろうか、ということでございます。
 そのころの収集家の間では、日本占領下の華北5省と蒙彊【もうきよう】の加刷切手の収集が、大へん盛んなものでございましたが、この華北加刷には、省ごとに大字と小字の加刷がございまして、加刷の台に使われている切手がややこしく、中華版と大東版があって、それがまた広【ひろ】、狭【せま】の版にわかれております。
 その他にも、ロンドン版、北京烈士、商務烈士とがございまして、そのかねあいが誠に複雑で、興味が深いのでございます。同じ加刷でありながら、たまたま極く少数しか刷られなかった台切手など、郵便局の窓口からは売られず、北京からこの切手会へ直送されるということも、あったようでございました。私も先輩の水津正久さんと、リストを作って、収集に余念がありませんでした。
 こういうところを見込んでの、ご依頼のようでしたから、「そんなことでしたらお安いことで」、と引きうけまして、翌日さっそく丸の内の逓信省内の切手会へ、おもむき、残っていた10数枚を手に入れまして、責任を果したことがございます。切手会には、7~8名の女子事務員さんがいて、ときに下田事務官や、中村宗文さんが、来客のお相手をしておられたのを、覚えております。
 ついでに、昭和18年(1943)1月の切手会々員名簿を見ますと、2,300名で、いろいろな著名な方や、故人になられた方のお名前がございます。
 3つの東京の郵趣会 さて、昭和15年〔1940〕から、戦争が激しくなる19年〔1944〕ごろまで、私は「JPC」と「如水会」、それに「旅の趣味会」の3つの会に、はいっていました。「JPC」は私の古くからの友人である、伊東由巳さんの紹介で入りましたが、先きにお話した熊沢義彦さん、和田元震さん、川合幹夫さん、それに水津正久さんなどが主なメンバーで、毎月京橋の「富士アイス」などを会場として、例会を開いておりました。
 JPCでは、昭和15年(1940)2月11日、紀元2600年記念切手が発行された日の晩、歌舞伎座の前の「弁松〈ベンマツ〉」の2階で、逓信省の切手の画家であられた、加曽利鼎造〈カソリ・テイゾウ〉さんを囲む会を開いて、切手の製造についての座談会がございました。私はそのときのありさまを記事にいたしまして、≪ 漫歩≫ 誌に「東京だより」として寄稿しましたところ、これが逓信省の上司の目にとまり、加曽利さんは職権を越えたと、始末書を書かされたとか、あとから聞いて、恐縮したしだいでございます。
 この加曽利さんは、お酒が大へんにお好きで、そのため酒の上で交通事故にあい、なくなられたと聞き、当時のことを再び思い起しました。
 如水会は、名古屋で活躍していた、大川如水さんを中心に、大川さんが上京するたびに、松下暢さん、林【りん】木発さん、浅野弘さん、宮下忠雄さんなどがレギラー・メンバーで、蔵前にあった貸席「植木屋」などを会場にしていました。如水会では後に、私も幹事をやらさせていただくようになりました。
 旅の趣味会は、伊藤喜久男さんが主催されまして、田中野孤禅さん、磯ヶ谷紫紅さん、森義信さん、酒井利澄、上原富五郎さん、その他がご常連で、銀座東うらの「朝日クラブ」を会場に、我楽苦多【がらくた】趣味品の交換を主とされておりました。
 押付けられた「見合い」 まあそんな、楽しい会で、皆さんとおつき合いさせて、いただいておりましたが、昭和15(1940)年の冬のことでございます。商売上では下職【したじよく】と申しますが、仕入先の徳島という人がおりまして、私に嫁さんを世話すると、申すのでございます。埼玉のある村へ連れていかれ、いきなり先方の家へ、のり込むという乱暴さでございました。
 みれば仲人の徳島が申すとおり、さすがに村でも有数な百姓家〈ヒャクショウヤ〉で、屋敷は広い家でございました。二人は座敷に通されまして、床の間を背に、しばらくは正座の時間がつづきました。これでまたずいぶんと待たされまして、おそらく娘さんのお着付けが大へんだったのか、あるいはその土地の風習が、そうなのかも知れませんが、こちらはそろそろ足もシビレが切れてきて、いい加減いやになってまいります。
 それに気がつきますと、周りの障子のかげから、入れ代り立ち代りに、のぞき見をしているのでございます。これが少しばかりの人数ではなく、そのうちとうとう外は暗くなってしまって、田舎家〈イナカヤ〉のことですから、薄暗い電気がたった一つ。頃はよしとばかりに、いよいよお嫁さんのお出ましと相成りました。
 障子を開けて、シズシズと私と仲人の前に座り、一礼をして持ってきたお茶と、ぼた餅を私にさし出します。小ぶとりのいかにも田舎タイプの、健康優良女性でございます。私はあまりに長時間待たされて、もうのどはすっかり乾ききっておりました。思わずお茶を一口飲んだところが、おはぎもドウゾと、すすめられますので、当時は甘いものの少なくなっていた、ときでございますから、デワゴチソウニナリマスと、食べてしまったのでございます。ところがこれが,とんだ間違いのもとで、嫁がひき込むと、とたんに障子の外が、何やらさわがしい空気でございます。
 もううんざりするほど、遅くなりましたので、帰ることにいたしましたが、この家から東武電車の駅までは、2㌔ほどの道。村はずれの鎮守さままで送ってきた娘さんは、もうすっかり嫁さん気取りでございます。駅まで送ってきた徳島も、何もいわないので、そのまま別れて帰りました。
 娘さんはともかくとして、なんとなくそのやり方や、ふんい気がどうも気に入りませんので、私は翌日徳島に会い、「あれは駄目だぜ」と、断りました。すると、徳島は声を荒だてまして、いま更そんなことを、いってゆけるかと申します。ボクば承知したおぼえはないよと、突っぱねますと、彼は、それじやなんで、ぼた餅を食ったんだ、それが承知した、証拠なのだ。これがこの土地の風習だと、いうではありませんか。冗談じゃない、そいつぁペテンだ、なんで最初に、そのことを教えといてくれないんだと、互に応酬のくり返しとなりました。
 おまけに田舎から貰っておけば、このご時世だ、米野菜には困らないから、得【とく】でしょうなどといわれては、もうお話にも何もなりません。そして2~3日たって、また徳島がまいりまして、向うの親類がより合って、布団など縫っている最中に、なんとか断ってきた。だが娘は気の毒だねえ、などとしきりにいいながら、おれも何がしかにならなくって、損したといいます。私はもうつくづく閉口して、めんどくさくなりました。先方へ何か届けてくれと、50円を包んで、これでケリにしてくんなといって、幕にいたしましたが、ぼた餅ひとつが50円、よい勉強をいたしました。やはりこういうのを、緑がないというのでございましょう。

 四一〇ページに、切手の写真が一枚あり、「<河北>加刷切手」というキャプションがある。台になっているのは、中華民国郵政の½ 分(半分)切手、これの上部に右書きの横書きで、「河北」とある。
 占領地の加刷切手が日本の切手会に直送され、切手愛好家の蒐集の対象になっていたとは、この文章を読むまで知らなかった。
 また、埼玉県某村での「見合い」の話も興味深い。それにしても、東武東上線沿いにあったというその村は、何という村だったのか。今でも、その村では、ボタ餅をめぐる「風習」が残存しているのだろうか。

 

 

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