礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

木畑壽信氏を偲んで・その2(青木茂雄)

2017-09-22 02:27:56 | コラムと名言

◎木畑壽信氏を偲んで・その2(青木茂雄)

 深谷善三郎編『(昭和十八年二回改正公布)戦時刑事民事特別法裁判所構成法戦時特例解説』(中央社、一九四三)の紹介を続けようと思ったが、昨日、青木茂雄氏の「木畑壽信氏を偲んで」の二回目の原稿が届いたので、本日は、これを紹介する。以下、すべて青木氏の文章である。

木畑壽信氏を偲んで(2)        青木茂雄
  ……
ああ、わが心と念いはいかばかりに飢え
 人の友よ、汝の慈(いつく)しみをこがれ慕い(したい)まつるや!
ああ、われはいかに、時に涙ながしつつ
 この食物に与(あずか)らんと憧(こが)れ求むるを常とするや!
ああ、いかにわれは渇き求めて、
 生命の君の飲みものに与(あずか)らんと願い来しや!
……
(J.S.バッハ『教会カンタータ180番、“装(よそお)いせよ、おお わが魂よ”』 より、杉山好訳)

(Ⅱ)「僕の思考は倫理的である。」 
 1978年から79年にかけて寺小屋教室の中で、ちょっとした議論があった。それは、同教室の運営方針を巡ってなのだが、財政問題もからんで、より一般受けのする「教養講座」をめざす潮流と、寺小屋教室の初期の理念「われわれの思想をわれわれのの手で」にこだわる潮流とである。後者の潮流をより純化すれば「講師」を外側から呼ぶのではなく「会員」自らの手で講座をつくる方向性をとろうとする。そうするとその反論として、金銭をとることの意味もなくなる、会員に何も材料を提供することなく、いきなり議論せよとは暴論だ…、という意見がででくる。これもまた、もっともな話である。とまあ、どこにでも良くあった議論である。そこに「思想」の自主性とか主体性とか、はたまた内部性とか土着性とかいう議論がオーバーラップされてくる。これもまた、昔から良くある話である。その「思想」的な議論が寺小屋論の中で展開されるようになった。私が属していたのは後者の潮流であり、従って私の腑分けもその観点からなされている。
 1979年からいくつかの講座が閉講になり(私の属していた「明治国家論」も閉講となった)、閉講された講座の会員の受け皿も兼ねて、寺小屋論の番外編として「土曜講座」と銘打った、自主講座が会員の手によって行われるようになった。その中で行った、私の過去の体験を回想記風につづった短い報告の評判が結構良く、小阪氏のサジェスチョンもあって、それを「戦後思想論 戦後左翼思想と倫理の成立根拠」(以下「左翼倫理」と略)と銘打ったやや長めの文章にしたため(当時は皆手書きだった)発表した。今私の手元にあるコピーには「土曜講座・番外編 1980年3月9日(日)於寺小屋教室」とある。寺小屋論の番外編としての土曜講座のそのまた番外編で、である(「左翼倫理」については稿を改めて論じたい)。木畑壽信はこの土曜講座の常連であった。当然、「構成する差異」の続編も発表されたと思うが、私にはその内容の記憶がない。
 土曜講座に出席していたメンバーの中の幾人かが中心となって、1980年から81年にかけて寺小屋を離れて、自主的な研究読書会がはじまった。中心となったのは小阪氏である。(このあたりの記憶はあまり確かではないが)テキストはアリストテレス『デ・アニマ』(河出「世界の大思想」版で)、デカルト『情念論』(角川文庫版で)、スピノザ『エチカ』(岩波文庫版で)、ヘーゲル(何を読んだのかは忘れた)、メルロオ=ポンティ『行動の構造』(みすず書房版で)、マルクス(『経済学哲学草稿』、これは部分的に原語で読んだ)、吉本隆明『共同幻想論』などである(この機会に私は『共同幻想論』をかなり徹底して読んだ)。テキストの選択には小阪氏の志向(嗜好)が多分に反映されており、後年小阪修平論を試みるむきには何らかの参考となろう。研究読書会には、やがてヘーゲルやフッサールの研究者として知られるようになる若き西研氏も参加し、しだいに学術的な色彩を帯びるようになった。そして、ヘーゲルの『精神現象学』をドイツ語で読もうということになった。これがやがて、当時は駆け出しの文芸評論家であった竹田青嗣氏も参加することになる「ヘーゲル研究会」(通称「ヘ研」)である。当時の私のドイツ語力ではヘーゲルにはまったく歯がたたないことがわかったが…。そこはさすが竹田氏である。ドイツ語は初めてです、などと言いながら文法書を片手にすらすらと読んでいく。「ヘ研」はドイツ語的には西研氏が集約し、内容的には小阪氏が集約した。
 さて、このグループの中で、1982年のはじめころから、小阪氏が雑誌を発行したい、と持ちかけた。その構想として、何を書いても良い、ただし書いた分量だけ資金を負担すること、等々の原則を提案した。
 話はとんとん拍子で進み、中央線高円寺駅近くの簡素な木造アパートの8畳一間を借り、スチール製の机の上には共同出資して購入した当時最新式であった「モトヤ」の電動式和文タイプライター「タイプレス」を据え(当時はワープロ登場直前の時期であった、したがってほどなくしてそのタイプライターは使われなくなり、象徴的な意味しかもたなくなった)、版下作成まで自主的に行うというシステムが考案された。雑誌のタイトルはいろいろとあがったが、最終的には小阪氏提案の「ことがら」となった。いうまでもなくこれはヘーゲル哲学のキーワード“Sache”(ザッヘ)からきている。木畑壽信は最初から「ことがら」同人であった。私の木畑との付き合いの第二期がこのようにして始まった。
 1982年夏に『ことがら』1号が発刊された。1号には小阪氏の「制度論」の連載第1回掲載された。「制度論」はスターリン主義を単なるロシア的後進性に帰することなく、近代的な思想や制度総体の中でとらえ批判して行こうとする壮大な構想から出発したものである。本当は「観念論」としたかったのではないかと私は踏んでいるのだが(それほどまでに“観念”は当時の小阪氏にとっては大きな位置を占めていたと私は思っている)、「制度論」は「ことがら」の終刊によって未完のままに(未発といった方が良いかもしれない)終了した。しかし、その切り口は今も生々しく残されている。誰かがその切り口を引き継ぐべきだ、と私は考えている。小阪氏は1920年代の初期ソビエトについてかなり詳しく研究しており、「あの誠意、あの献身、それがどうしてあの圧政へと反転していったのか…」という言葉を、彼の口からしばしば聞いた。
私は「表現と行為(1)」を書いた。これは、1977年に私が『寺小屋雑誌』6号に掲載したもので、2、3の人から評価をいただいたので、大変に気を良くしてその続編にとりかかり「感性的思惟」を書いた。ところが『寺小屋雑誌』には載せてもらえず、この機会にと思って、せっせと据え置きの「モトヤ」の和文タイプを駆使して版下をつくって、1号に冒頭論文として全文掲載した。私としてはかなり自信作で今も愛着を持っているものなのだが、「表現と行為」を評価してくれる人は残念ながら、これまでに皆無である。ヒュームの『人性論』にならって言えば「印刷所から死産した」のである(笑)。従って、続行する意志をなくし、その代わりに2号から、「戦後倫理」の続編として「70年代記」の連載を始めた。これが内輪の間では結構評判が良く(とくに小説家の笠井潔氏からお褒めいただいたことを光栄に思っている)、何よりも版下を読んだ印刷所の人から「この後どうなるんでしょう?」と言われたのには正直うれしかった。
「70年代記」と「表現と行為」は表裏の関係にあり、両者ともに私の青年期の総括である。
自己宣伝めいた話はこれで終了して(この辺の事情については、また機会を改めて書くこともあろうかと思う)、本題の木畑壽信のことに戻る。
 1号には木畑の「世界との対話」が掲載された。A5版の小冊子で、9ポで2段組の13ページだから中くらいの分量の作品である。「自己 自己の表現 性 愛 …」以下「自己表出」にいたるまでの全部で25項目について短い文章で綴ったものである。
 冒頭の「自己」という項目に次のような文章がある。

「1.自己の思考に対する提言
① 思考の観念性を排除すること、つまり〈架空〉の問題を定立しないこと。従って、思考の架空性の拒絶は、現実の社会的諸関係のなかの自己が必然的に引き受けざるを得ない諸関係(自己の立場)を明確にすることによって可能である。
② 僕の思考作用は倫理的である。だから、行為にかんする決定の基準が倫理的である。」
 この「世界との対話」は自身の20代前半に書き記した3冊のノートから作成したものであると、木畑は書いている。一読しては、この①と②の関係が良くわからないが、良く読むと「必然的な社会的諸関係」を引き受けることが「倫理的」であり、逆に言えば、思考は倫理的であり、それは必然的に社会的諸関係を引き受けている、ということになる。
 木畑の言うことの一面はわかる、しかし、思考している自分自身とは何なのだ、という問いがすっぽりと抜け落ちている。ここから「社会的諸関係」の表象が即座に「倫理」としてたち現れるという《転倒》が生じるのではないのか、という疑念が生じる。この点を指摘したのが小阪修平であった。  (つづく)

*このブログの人気記事 2017・9・22(8位に極めて珍しいものが入っています)

 

 

コメント
この記事をはてなブックマークに追加