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≪ ノーベル文学賞を巡る騒ぎ ≫  選考/推薦組織の権威と普遍性を どう担保するのか?  世界遺産や「ISO」ビジネスの二の舞にならぬか?

2018-10-05 09:50:47 | トーク・ネットTalk Net
☆ ノーベル文学賞、復活なるか 財団の見方は厳しく https://www.nikkei.com/article/DGXMZO36134850U8A001C1CR8000/?n_cid=NMAIL007
 此の文学賞を巡る最近の騒動、関心も薄いため詳しく知らぬままだったが、此の報道を読み、理解できないことがある。
 (1) ノーベル賞受賞者の選考を委任されているアカデミーメンバー(女性詩人)の夫が過去のセクハラ容疑を暴かれた事件で、何故、文学賞選考まで中止する?
 (2) 「同アカデミーが閉鎖的でエリート主義的である」と批判してきた文化人らが<今年限りの市民文学賞を創設>した動機は何? 単なる権力闘争ではないのか?
 (3) 同アカデミー事務局長のオルソン氏が<今年限りの市民文学賞>を<真剣なものとは考えられないとの見方を示した>というが、そう批判する理由は?


 恐らく、細かく取材をしている人は何処かに居て、そのうち私の挙げた(1)~(3)の疑問も解かれることになろうと期待したい。其の解明を見ないと部外者にはノーベル賞に関する
全貌を判断するのは難しい。  それはそれとして、私がおよそ≪~賞≫と名の付くモノに関し、昔から感じていた根本的な疑念は消えない。

 私の抱く常識によれば、≪「賞」を授け顕彰する目的は、世の人々の生活向上に受賞者が貢献した功績を広く知らしめ、報いの気持ちを共有する、そして後進の励みにしてもらいたい≫
ということだろう。それはノーベル賞に限らない。 日本の文化勲章、文化功労章なども同じ。市民レベルでの各種「賞」も目的・存在意義は同じだろう。
 唯、戦場での功績を称え軍人/兵士に与える勲章は「世の人々の生活向上」への貢献と直接結びつきがたいのと、功績認定が比較的容易であるので、本稿で取り上げる『選考組織の権威』からは除外しておく。

さて、此の世の中への貢献が誰にも見えて、最も判定しやすいのは科学技術や医療分野だ。すなわち<物理/化学/生理学/医学>賞。 翻って<平和賞/経済賞/文学賞>として与えられる領域、これらは従来から賞の存在そのものへの疑問が絶えない。
 何故なら、「経済学賞」の如く理論的解明の効果立証が困難または不明瞭であるのに加え、実際の功績に実現性や普遍性がなくとも”励まし賞”として与える「平和賞」は、首を捻らざるを得ない人物にも時として与えられたからだ。南アフリカのマンデラ元大統領はいいとして、佐藤栄作しかり、バラク・オバマも、首を捻ってしまう受賞者は枚挙にいとまない。

 
 まして、”文学の人類への貢献”とは何か? どう判定するのか? そもそも”地域文化/風土/言語の相違の呪縛”から離れられない文学表現が、全世界から選考する賞を授けられるのに適しているのか?  ・・・これが最大の疑問だ。
 村上春樹が話題に上るのも、作品が日本語でよまれた結果ではない。英語他の西欧語に翻訳しやすい文体を村上氏が心がけているがための人気であるが、それはカズオ・イシグロの作品が受賞したのと次元は違う。違うという意味は受賞後の各国文壇/言論界が寄せた賛辞の内容を見れば明らかで、(私も幾つかの作品を読んだが)<民族/国籍/家族愛/郷土意識/争い>といった普遍性に富むテーマを、イシグロ氏の人生あるがゆえ語れる無二のメッセージが人々の心を打ったのだ。 さりながら、いつも誰もが異論を唱えないこなど無いのが経済&文学の分野なのだ。
 例えば、川端康成氏や大江健三郎の受賞、これを世界への貢献の観点からどう評価するか、人それぞれで良い。それほどバラつきが出る領域だからこそ、情実とか閉鎖的な偏向などが介入しやすいだろう。組織の通弊。 ここをアカデミーも運営財団もよほど気を引き締めてかからねば、世界遺産選考やISO運営団体がビジネス化した轍を踏むことになろう。
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