この墓の中に清の乾帝の寵愛を受けた王族の娘も葬られ、その娘はよい香りがしたということから「香妃」と呼ばれたので、この墓が「香妃墓」と通称されているようです。
彼女は1760年に後宮に入り、はじめは「和貴人」、後に「嬪」となり、35歳で「容妃」となり、55歳で北京で没したとのことです。
写真(2枚目)が香妃の肖像です。これは私が遙か東方河北省にある清東陵を見学した時に、買った写真集に載っていたものです。この香妃墓を見た時には気付かなかったのですが、今回このレポートを書くにあたり、この「阿巴克霍加麻扎」の説明文に香妃のことが書いてあり、それを読んで、清の東陵の乾帝に西域から来た寵妃がいたことを思い出して、この写真を引っ張り出し、西の果てカシュガルの王族の墓と遙か東の清の東陵に共通点があることが判りました。
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彼女は1760年に後宮に入り、はじめは「和貴人」、後に「嬪」となり、35歳で「容妃」となり、55歳で北京で没したとのことです。
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