住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
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慈雲尊者の『因果無人』から三世の因果を学ぶ

2010年06月13日 19時53分27秒 | 仏教書探訪
慈雲尊者は、真言宗にて出家得度四度加行を済ませ、臨済宗にて参禅のあと、河内高井田の長栄寺にて正法律を唱導した。そして、お釈迦様の正当の戒律を重んじた僧団を作り、そこで多くの僧俗を教化した。41歳の時、一時生駒山中腹の長尾滝付近に雙龍庵を結び、13年ほど住まいして、この間に多くの法話が弟子達により記録されている。それらを収録した「雙龍庵時代法語集」(三密堂刊「慈雲尊者法語集」より)に『因果無人』という法語がある。三世因果について説かれたその慈雲尊者の肉声の記録を分かりやすく現代語に意訳して学んでみようと思う。

「インドの龍猛が著した大般若経の注釈書である大智度論に、「一切世間ノ法 唯因果ノミニシテ人無シ 仮説ノ故二有ナルヲ除ク 此ハ是レ正思量ナリ」という偈がある。これはもともとお釈迦様の説かれた偈文で、それを龍猛菩薩が引用されたのである。この四句の中に、三世の因果が説き尽くしてあるので、今ここでこれを解説しようと思う。

一、一切世間ノ法について

一切とは、諸法をひとつかみにした言葉で、上は有頂天から下は阿鼻地獄までひっくるめて一切という。世間というのは、衆生が死んでは生まれてを繰り返している、生死の海に流転することである。世間はインドの言葉ではローカといい、暗闇のことを指す。この世間に、地獄、餓鬼、畜生があり、阿修羅があり、諸天があり、人間がある。これらをひとつかみに一切世間という。

法というのは、のり、法度のことだ。人間世界のことで言うなら、男女があり、大小があり、貴賤、尊卑がある。親子兄弟があり、君臣夫婦があり、自分があり他者がある。君たる者は上に立って万民を安楽にする政治をなし、臣下たる者は君に仕えて忠義に励み、子たる者は父母に孝を尽くし、父母たる者は子に教えをなして善を行わせ、弟は兄の教えに従い、兄たる者は弟を導く。また男女大小貴賤尊卑それぞれの礼儀作法がある。これらをさして世間ノ法というのである。

次に諸天について説くならば、まず私たちの頭の上にある空の日月星辰を遊空天と仏典ではいう。これは須弥山の山腹に当たり虚空の中にある天のこと。倶舎論には、須弥山の高さは、十六万由旬(一由旬とは牛車で一日行く距離という)あり、地の中に八万由旬、地から上が八万由旬だという。このあと四天王から始まり無想天に至る諸天について細かくどのような境界か寿命などについても解説している。そして、総じてこれらすべてを一切世間法といい、皆生死輪廻の世界であると断じている。

二、唯因果ノミニシテ人無シについて

唯とは他のまじりものの無いということ。因とは種となるもので、五穀などは去年の籾種が因となり、今年の米が果となる。しかし去年の籾種の中に今年の苗もなく種子もない。今年の穂の中に去年の籾種は見いだせないが、今年の春に種をおろしたときには秋の実りは予定されているとも言える。このようなことを唯因果のみと言うのであって、そこに米の実体というものはないのである。

人間界で言うなら、初めて三宝に帰依して仏法僧に恭順するとき、これが正しく人間に生ずる因となる。前世にこの因があると、必ず人間として生まれ変わる果が得られる。一切世間はこの因によって果を生じ、その果がまた因となりまた未来の果を生じていく。その輪転には、はてが無いのであるが、しかしそこには人間という実体はなく、これを因果に人無しというのである。

もし実体があって死ぬとき目か鼻から出て三帰五戒の功徳をもって人間の腹に宿るならば、過去世の名前もその因も知っていようが、そもそも実体のないものなので、一向にそんなことは知らずに私たちは生まれてくることになる。ただし、三帰五戒を受持したものは必ず五十年か三十年か、人間一期の果報を得ることができる。

それなのにせっかく人間に生まれても、父母師長に恭敬礼事すべきことを知らず、世間の是非善悪もわきまえない者がある。この心がそのまま畜生である。また、自分の物は惜しみ蓄え他の財物は取り貪り常に積み蓄えても、一針一草も人に恵むことの嫌いな者がある。この心がそのまま餓鬼である。さらに、国王大臣のような高位の者は、自分の勢威をたのみ妄りに多くを殺害したり、一切の凡夫にあっても、とかく己の心に適わぬことは父母に対しても怒りを起こし悪言罵詈雑言する者がある。さらには打ち叩いたり、殺したり。この瞋恚心がそのまま地獄界である。

この貪瞋癡の心によって種々の悪業を作るとき、その因果の業相はみじんも減じることなく相続していくものなのに、何も知らずに生まれてくるだけに、その前に何があったかも考えてみることもない。その業はどんなに時間が経とうとも、寸分も減じることなく因果相続していくものにして、三世の因果はただ今のこの一念の中に具足して違わぬものである。

三帰五戒を受けた者は、死ぬるとき苦痛が少ないので心も自然と歓喜して正しくなる。すると人間相応の中有が現れる。そのとき中有という物があったり、相応の心という物があるのではない。自心の業因縁にしたがって、次の生に生ずべき国が目にかかり、その中に一郡が、またその中の一村が、つまり自心の生ずべき縁ある所ばかりが見える。そして次第に転変してその村の中のある家ばかりが見えてくる。その家の中でもその父母ばかりが目にかかり親しみの心が起こると、中有を離れて胎内に入り、自然と増長して十月の後には出生する。そして次第に成長して五十年か三十年か人間界に住するのが三帰五戒の果である。

そして、少年かと思えばはや壮年となり、壮年かと思えば直に老年となる。その業に従って転々流転して一瞬たりとも留まることなく、少年の時にすでに生まれたときの身心はない。老年になれば壮年のときの身も心も得られない。少年の心が移り来たって壮年の心になり、壮年の心が老年の心となるのでもない。少年の時の身心が壮年の身心のために因となり縁となって現れているだけである。昨日の身心は今日の身心のために因となり縁となっている。そこには、因と縁と果ばかりがあるのであって、それぞれの身心が元来生じたるものでもない。生ぜぬものは滅せず。そもそも実体あるものではない、それを因果無人というのである。

三、仮説ノ故二有ナルヲ除クについて

私たちはこの身と心、仏教の言葉では五蘊とも言うけれども、まさに実際に存在する物のように思って、自分と他人であるとか、生き物と単なる物質であるとかと区別したりするが、それは仮にも実体ある物として存在するのではない。ここには因果の業相のみがあるのである。慳貪なる心がそのまま餓鬼界であり、瞋恚の心がそのまま地獄界、愚痴の心がそのまま畜生界なのである。この三悪趣もただ仮に名前をつけ説かれているのであり、実際にそこに喜があるのでも愁があるのでもない、得るものも失うものもない。これを仮説の故に有なるを除くというのである。

四、此ハ是レ正思量ナリについて

正思量とは、禅定時に得られる智慧のことである。このように徹見してみると、地獄の中に諸仏の智慧が、餓鬼の中に諸仏の法身が、畜生界の中に般若波羅蜜門が出現する。これを正思量と名付けると言われ、この法話を終えている。すべて実体ある物などない、これがそれぞれ五趣六趣のどこにありても、そのすべてを正しく智慧によって思量すること、三世の因果のみを透徹して見すえていくことなのであるということであろう。

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