住職のひとりごと

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國分寺に掛けられている書画について

2023年10月08日 17時20分24秒 | 備後國分寺の風景
國分寺に掛けられている書画について



まず、仁王門の上には「國分寺」と書かれた大きな扁額がかかっています。本堂正面には畳二畳ほどの大きさの扁額に「醫王閣」とあります。ともに戦前の京都大覚寺門跡谷内清巌猊下の書と伝えられています。寺内には、山号「唐尾山」の額がかかり、これは清巌猊下の銘があります。本堂の額の裏には仏教のシンボル「法輪」が彫刻されています。法輪はお釈迦様の教えの中でも最も実践的な八正道を表現したものです。

玄関から上がった部屋に衝立が置いてあります。平成三十年の仁王尊解体修理の際に台座から出てきた墨書きを表裏に数枚はめ込んだ衝立に仕立てていただきました。「欧州大戦乱為日本農民側不景気武器被服商人等大好景気」などとあり、大正四年に仁王門を修復した際に、寒水寺を兼務し後に宮島の大聖院に転住した、時の中興十一世住職快雄師により前回の仁王門修理の際の様子や当時の世情を書いた貴重な記録となっています。



左上に目をやると、小さめの額に梵字で大きく「Yu」とあり、右には「Om mogha samudraya suvaha」と弘法大師の種字と真言が書かれています。書いたのは私の出家の師匠となってくださった高野山高室院斎藤興隆前官で、梵字の大家と言われ宝寿院門主も務められた高僧でした。 

客間に入ると、正面上に「南山寿」の額。戦後最初の大覚寺門跡草繋全宜猊下の書となります。広島県深安郡加茂町出身で、國分寺を中興する快範師が國分寺に晋山する前に住職をしていた芦田の福性院で出家得度し、その後明治の傑僧と言われる釈雲照律師によって倉敷の宝嶋寺に開設されていた連島僧園にて修養の後、律師の居られる東京の目白僧園に移られて薫陶を受け、その後真言宗の要職を歴任されました。この書は高野山の執行長時代の書となります。南山とは中国にある終南山という山のことで、長寿や堅固の象徴とされていることから、事業が栄え続けること、または、長寿を祝う言葉です。そして仮床には同じく全宜門跡の書軸「虚空」が掛けられています。

同じく客間の東側には、深安郡道上出身で平野の法楽寺から明王院に転住され、のちに大覚寺門跡、高野山座主を歴任された龍池密雄猊下の書額で、「歓喜」とあります。西側には、明治時代に編集された『廣島県名所図録』に掲載された当寺の様子をもとに福山の画家柳井睦人氏が國分寺の伽藍全体を書いた額があります。



そして東側に置かれた屏風は、明治時代の名僧が扇面に書いた書を二曲屏風に仕立てたもので、明治時代にのちに京都仁和寺門跡、高野山管長となられる土宜法龍師の書もあります。師は明治二十六年(1893年)にシカゴで開催された万国宗教会議に日本代表として出席され、その後パリのギュメ美術館で仏教関係資料の調査研究にあたり、南方熊楠とも交友がありました。明治二十九年現在の高野山福山別院の前身蓮華院改築の折に来福して法会導師をお勤めになられています。

そしてそれに対する西側の屏風は、明治時代の福山の画家長谷川画伯が描いた虎の図と、龍池密雄猊下の書で、「厳護法城」と書かれています。法城とはお寺のことで厳しく護りなさいということだと先代から聞かされてきました。

この客間の後ろの部屋の床には、香川県の八栗寺の住職で、後に高野山管長になられる中井龍瑞猊下が書かれた軸がかかっています。弘法大師の『性霊集補欠抄第十』に残されている一節、「閑林に独座す草堂の暁 三宝の声を一鳥に聞く 一鳥声有り 人心あり 声心雲水倶に了々たり」と二行に書かれています。

また南側には江戸末期の儒学者佐藤一斎の書額「達観」があります。誠に凛とした隷書の字ですが、一斎は幕末に活躍する佐久間象山、渡辺崋山、横井小楠らの師として門下三千人とも。天保十二年(1841年)に昌平黌の儒官(総長)を命じられ儒学の大成者とも言われています。

そして、客殿中之間には、襖絵として江戸時代の女流画家平田玉蘊の花鳥画が二面に貼り付けられており、この絵の斜め上には玉蘊と交際があったとされる頼山陽の「雄飛」と書かれた額がかかっています。

同じく中之間の床にかかる書軸は、明治期に我が国から初めてイギリスに留学し、当時最高の仏教学者マックス・ミューラーに師事して近代仏教学を学ばれた、東本願寺の学僧・南条文雄師の書となります。インド・鹿野園・初転法輪の地に参詣したときの感激を七言絶句に認めたものです。内容も書も素晴らしい書軸です。「鹿園の一涯に久しく座る 今朝又恒河を渡り来る 世尊初転法輪の處 懐古して去るを躊躇しまた回る (鹿野苑の聖蹟を詣でて)」 

北側には雲照律師が安政六年(1859)に書かれた貴重な書額があり、弘法大師の著作『般若心経秘鍵』の中にある一節で「蓮を観じて自浄を知り、菓を見て心徳を覚る」と書いてあります。

それから、客殿広間にかかる大きな額の中に書かれた流麗な字は、薩摩の西郷隆盛と談判の末江戸城無血開城を成し遂げた幕臣であり維新後は明治政府に仕えた山岡鉄舟の書で「褰霧見光」とあります。霧をかかげて光を見る、と読みます。弘法大師の著作『秘蔵寶鑰』の序にある言葉で、この後に、無尽の宝ありと続きます。意味は、「執着の霧を除き真理の光がさしかけるとそこに無尽の宝が秘められている(『訳注秘蔵宝鑰』松長有慶著)」となります。

この書は、福山草戸明王院復興のために、この地にやってきた鉄舟が福山地区の多くの真言寺院のために書いたとされているものの一つです。鉄舟は、北陸の禅宗の大寺復興のためにもたくさんの書を書き、資金集めの手助けをしてくださった方です。三舟の一人と称され書と坐禅に生きた人として有名ですが、明治期の混迷した仏教界にとっての大恩人と言えるでしょう。

そして、上段の間に進むと、まずは正面の床には、製作者年代不明の『如来荒神像』の掛け軸がかかり、その前には坐禅会本尊のタイ製の釈迦如来が半跏坐してゆったりと両手を臍の前に置きお座りになっています。

北側上に、「戒為清涼池」と雲照律師の大きな鮮やかな字で書かれた書額がかけられています。明治に仏教が排斥され、僧侶も戒律を軽視する時代に目白僧園、連島僧園、那須僧園の三ヵ所に戒律を重視した僧侶養成学校を作り、戒律主義を唱えた律師の気迫が感じられる書です。この世の中を清らかな池とすべく、まずは僧自らが戒を守ることの大切さを戒められているように感じます。

そして東側の壁には、江戸時代の湯田村寳泉寺の住持から高野山に登られ法印職から金剛峰寺座主になられた乗如丹涯猊下の漢詩が見事な行書で綴られた六曲屏風があります。
「中秋月前連日雨 正至中秋天漸晴 小風徐来拂秋霧 暮色凉爽露華清 
 東林吐月々更明 此夕何夕最多清 床頭旦設杯中物 風流恨只乏詩鑒
 独在香楼費吟句 何厭翫月至五更 天保二年夏四月 南山前寺務七三叟 丹涯」

是非ご参詣の折にはゆっくりとご覧ください。

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