住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

仏は私たちに何を望まれているのか

2012年03月28日 21時01分25秒 | 仏教に関する様々なお話
私たちは仏様に何でもお願いをする。何でもそれを実現してくれる方こそが仏様だと思いがちではないだろうか。本当にそうなのだろうか。仏教とは何なのか。何でも私たちの望むことをかなえてくれる教えが仏教なのだろうか。仏教とはそんな打ち出の小槌のような教えなのだろうか。私たちはつい、何でも自分たちに都合の良いように解釈しがちなのではあるまいか。耳障りのよいものだけを受け入れ、耳障りなものは聞こえないふりをする。そんな姿勢が仏教という教えを歪なものにしてはいまいか。

仏教とは、お釈迦様の教えであろう。その教えが次第に変化して、いまのような仏教になった。お釈迦様の近くに居られた弟子たち、また在家の支援者たち、他の宗教の人たちに教え諭された教えこそが仏教だった。それが次第に時代の推移によって、より多くの人たちが受け入れやすい教えとなり、大衆化し、世俗化して今日のような教えとなっていった。良い悪いではなく、そうあったからこそまた世界の広くに教えが広まってもいったのであろう。

では、そもそも、仏様とはどんな存在なのだろうか。お釈迦様は何でもおできになられたけれども、そのまま私たちの望みを叶えてあげるとは言われなかった。みんなそれぞれがその自分の位置から努力して心を浄め、徳を積んで精進することで早く、一生でも早く自分と同じ所へ、つまり真理を見て、智慧を得て悟り、輪廻の世界から解脱することを願われた。そのためには厭わず誰にでも教えをお説きになられた。それこそが仏様の役割だとも言えよう。

沢山の仏菩薩を私たちは思い描く。慈悲深く私たちを見守って下さる存在に救いを求め、すがりたくもなる。しかし、本来の仏様の役割を逸脱してしまったならば、仏教ではなくなるのではないか。仏様の願い、望まれていることを私たちが勝手に書き直して、ただ、今のこの煩悩にまつわれた心から発せられる望みをただ聞いて下さると思うのはいかがなものであろうかと思うのである。何を仏様は私たちに望まれているのか。それをこそ私たちは改めて思い返してみるべきなのではないか。

私たちは何を仏様に求めるべきなのか。つらく暗い気持ちで居るときにでも、そっと教えを授けてくれる。慈悲のなまざしで、けっして見放すことなく、どんなときでも意味のある、価値のある、即効性のある教えを、お言葉を語って下さる。その教えによって、私たちは救われ、心を取り戻し、何とか頑張っていこうと思える。もうダメかと思っていても、そんなことはない、いつでも生きているならやり直せるのだと思える。そもそも私たちの生きる意味、生きる価値とは何なのかと教え諭し、それをこそ求めるべきであると語り、私たちの歩むべき道を照らして下さる。そんな救いの言葉をいつも私たちに語り伝えて下さるお方だからこそ私たちはすがり、そのお言葉に自分をしっかりと保ち、さらにさらにと力を下さるものとして仏様を信じることも出来るのであろう。

時に厳しく私たちの願いをはね除けることもあるであろう。甘い考えを言下のもとに否定されることもあるだろう。しかし、それこそ仏様の慈悲として私たちは受け入れ、その厳しさの中にこそ、この世の真理を厳しく見つめ、自らを振り返り反省し、自らの姿勢を改めることも必要なのかも知れない。そうしてこそ本来有るべき自分を見出し仏様の願われる悟りへ近づく近道なのだと知るべきなのかも知れない。私たちの望むことばかりを仏様は授けてはくれない。もっと深く、もっと本当の真実のことを私たちに突きつけ、本来私たちのあるべき道へと導いて下さる存在だからこそ仏様なのではないかと思う。

慈悲深く私たちを導かれる阿弥陀様の教えと捉えがちな浄土経典の中にも下記のような厳しい言葉が随所に散見される。私たちの願いをかなえて下さる前に私たちにはすべきことがあることを知らねばならないということなのであろう。本来仏教とは因果を説くもの、縁起こそが法であることを思えばそれが当然のことだと理解されよう。在家者にははじめの教えとして、必ずお釈迦様は施論戒論生天論を語られたという。施論戒論があるから生天論に至ることもできるということなのである。善きことをなし、正しく生きることをこそ仏は望まれておられるということであろう。

「福徳を修めぬ者はこのような教えを聞けないであろう。ただ勇猛にして、一切の目的を成就した者のみ、この説を聞くことができるであろう」大無量寿経(岩波文庫「浄土三部経」より)

「下劣で、怠け者で、邪見のある者は、目ざめた人たちの法に対するきよらかな信を得ることができない。かつて過去の目ざめた人たちに供養をした者は、世の主たちの行いに学ぶのだ」大無量寿経

「身体を端正にし、行いを正しくして、ますます、さまざまな善を実行し、自己の修養につとめ、体を清くし、心の垢を洗い流し、言葉と行いとが一つになるようにし、表面と裏とが一致するようにしなければならない。人が自己を完成し、引いては他者を救い、また、他者に救われ、はっきりと願いを立てて善の根本を積んで行ったならば、一生の間の苦しみはたちまちのうちに過ぎて、後には無量寿如来の仏国土に生まれて、幸福は限りなく、永遠に覚りと一つとなり、生死の繰り返しの根本から永久に抜け出し、貪欲と憎悪と迷いの苦しみに悩まされることはないであろう」大無量寿経

「生ける者どもは質の劣った善行によって無量寿如来の仏国土に生まれることは出来ない」阿弥陀経

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8 コメント

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神仏の捉え方 (茉莉花)
2012-03-29 08:38:40
私の母はこんな事を言っていました。『神や仏は、人間の欲望を叶える為に存在しているんじゃない。世界の秩序を保つ為に存在しているんだ。』と。
私の母は無宗教ではありますが、神は否定していません。神は否定しませんが、人間が思っている様な神は否定しています。
神仏の仕事は、あくまでこの世の調和を整える事が仕事なのであって、人間の欲望を叶えるのが仕事ではないと母は言っていました。
何処ぞの某教団は、何か悪い事があると、『大聖人の教えを信じないからだ』等と言い、良い事があれば今度は『大聖人の教えを信じたお陰だ』と言っていますが、私にすれば『戯言』。もしそうなら、誰も苦労なんてしません。けれど、現実はそんなに甘くない。そもそも、そんな戯れ言を言っている時点で、既に仏教というものを取り違えてる。仏教はおろか宗教というものを甘く見て居る気がしてなりません。
宗教とは何か?人々がより良い社会を築く為にあるもの。差別を助長する為に存在して居るわけでもないし、争う為に存在して居るわけでもない。私利私欲を満たす為でもない。
何処の宗教も開祖はそんな思いで活動して来た筈です。教義こそ違えども、思いは皆共通です。マザーテレサは最も良い例です。例え宗教が違っても、信者でないからと切り捨てず、困って居たら、すかさず救いの手を差し伸べる。それこそが宗教の在るべき姿と言えるのではないでしょうか。
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はじめまして (漆のにゃんこ)
2012-03-29 16:21:45
ブログで紹介させていただきました。
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返信 (全雄)
2012-03-31 17:12:14
茉莉花さん、いつもながら正論をきちんと説いて下さり恐縮です。これからも宜しくお願いします。

漆のにゃんこさん、はじめまして、ブログにご紹介下さってありがとうございました。今後ともどうぞ宜しくお願いします。
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Unknown (匿名)
2012-04-03 14:24:18
法華経に帰依せよ
返信する
お大師様の言葉 (茉莉花)
2012-04-04 18:44:16
この記事を読んでいて、ふとお大師様の言葉を思い出しました。
『夫、佛法遙かに非ず、心中にして即ち近し、眞如外に非ず、身を棄てて何んか求めん。迷悟我に在れば、發心すれば、即ち到る。明暗他に非ざれば、信修すれば、忽ちに證す。(般若心経秘鍵より)』
『法身何に在る。遠からずして即ち身也。智体如何ぞ。我が心にして甚だ近し。(秘蔵宝鑰より)』
『禽獣卉木は皆此れ法音、安楽睹史は本来胸中に在る事を頓悟せしめん(遍照発揮性霊集より)』
皆、自分自身の中に仏が居るということを言っています。
多くの人は仏をあたかも別の存在、或いは、自分から遠い存在と思いがちです。そして、お経の中だけが仏の教えであると思いがちです。
でも、お大師様の言葉から察すれば、仏の教えは経文だけとは限らない。日々の生活の中に仏の言葉が隠れているんだという事を私達に伝えようとしているのではないかと私は思います。この世に存在するもの全てが仏の言葉、若くは文字そのものである。そうお大師様が教えて下さっているのだと思います。
お経は、真理の一部を表したに過ぎず、それその物が真理ではない。最終的な答えは自分自身の中にしかないのだから、自分自身で探さなくてはならない。お経はその手助けとなる助手でしかない。
基本的に仏教は、己を見つめる教え。お経を読み、仏を崇拝するのが本来の仏教ではなかった筈なのです。
礼拝の対象となる仏像は、いわば自分自身の分身の様なもの。別の存在として拝むのは違う気がします。ましてや、信仰心を矢鱈と謳うのも違う。兎に角自分自身を見つめ、自分はどう在らねばならないかを思索するのが仏教徒の姿勢かと思います。
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自と他 (全雄)
2012-04-06 08:19:52
昨日ある先生からお便りがあり、日本の仏教は、明治以後、キリスト教の影響からか、どうも、他者から与えられるものとなってしまった。

自己による精進、修養から得られるものこそが仏教であるべきだということです。

正におっしゃられるとおりです。

頑張りましょう。
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匿名様 (全雄)
2012-04-06 08:28:39
お便りありがとうございます。

法華経に帰依せよと言われても、特定の大乗経典だけ読んでも仏教の何たるかは分からないと考えています。

何故法華経なのか、その理由をお教え下さい。
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Unknown (Unknown)
2012-04-12 03:15:43
釈迦の教え、原始仏教自体が
根本分裂で大乗部からは失われてますし
更に中国を経て日本に渡り、もう今現在日本にある仏教(それは鎌倉新仏教も含めて)は「釈迦の教え」とは完全な別物なんじゃないですか?

天台宗は本覚思想で訳分からないことになってますし、真言密教はむしろバラモンに近い。
そもそも大日如来という最高神がいる。
輪身というのは分かりますが…

浄土教に到っては阿弥陀仏の本願だけを選択して後全てを捨て去ってますし、もう名前の通り浄土教。
六波羅蜜どころじゃない。

禅宗も拈華微笑の一つが全ての根拠。
日蓮宗の題目は日蓮の言葉以外根拠すらない。

それでも今、残ってる教えのほとんどが大乗の教えということを考えれば、根本分裂は正しかったのかもしれませんね。
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