住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

供養の先のこと

2010年01月24日 18時42分05秒 | 仏教に関する様々なお話
供養という言葉、よく使われるだけに何となくみんな分かっていると思っている。しかし供養とは何ですか、などと言われるとちょっと困る。はたして供養とは何なのか、何をしたら供養と言えるのであろうか。

先祖の供養、亡き精霊の供養。お寺などで、よく供養してあげてください、などと言われ、その気になって返事はするものの何となく落ち着きの悪い思いをしたことはないだろうか。供養とは、インドの言葉プージャーを、中国で翻訳した言葉だ。プージャーとは、インドではよく聞く言葉で、神様の御像を前に御供えをして香を焚きお経を唱えることを言う。仏教寺院でも、朝のお勤めのことをプージャーという。

カルカッタの僧院にいた頃、いつまでも起きてこない若い坊さんがいて、起きてきて顔を洗ったかと思うと食堂に行こうとするので、「プージャーに行け」と叱られていた声を思い出す。そしてこのプージャーには、この御供え、礼拝の他に、尊敬する尊崇するという意味もある。尊敬する気持ちがあるからこそ、礼拝するのだし、沢山の御供えをしようという気持ちにもなる。

普通、六種の供養などと言われ、仏前には、花、灯明、線香、仏飯、茶湯を供え、自身には塗香を手に擦り込み、手を合わせ礼拝する。お寺の本堂に参ったり、仏壇で拝むときも、また、墓などで石塔を拝するときも同様であろう。そして、これら物質による供養の他に、真言宗で読誦される般若理趣経では、仏を供養するとは、①菩提心を起こし、②一切の衆生を救済する願いをもち、③般若の教えを受持し、また④他に教えることを言うとある。

菩提心とは、菩提・悟りを求める心のことである。悟りなどと言うと縁遠いように思われようが、悟りとは最高の幸せのことなのだから、幸せを求めない人はいないことを考えれば、誰しもが本当は悟りを求めているのだとも言えよう。どうせ求めるならば最終的には最高の幸せ・悟りを意識して少しでも近づけるように生きるということだ。

一切衆生を救済するとは、とてつもなく遠大なテーマだとも言えようが、誰でもが一人で生きているのではない、みんな他のものたちと関わり、相助け助けられ生きていることを考えれば、みんなすべてのものと縁続きだとも言える。すべてのものがつながっている。そう考えると、すべてのものを救済するというのもそんなに当て外れのことではない。自分のできることを周りのみんなのためにすることがそのまますべてのものたちにつながって良い影響を与え、助け合い救い合うことになる。

般若の教えを受持するとは、この経典の教えを常に心にとどめて生きることではあるが、それはそう簡単なことではないように思われよう。しかし、自と他の一体平等を説く般若の教えは、先に述べた自分は一人では生きられない、完全に独立した個など存在し得ない、一人では存在しえない、つまりは自分などと言える存在などないのだという認識に立つことである。

それをまた他にも教えるというのも、そんなに難しく考えるまでもない、一人ではない、他とのつながりの中で生きている私たちは、意識するしないにかかわらず、他に影響され、他に依存しつつ生きている。一人の優れたものの考え方は他に、周りによい波動として伝わることであろう。では、なぜこうした悟りを求め、他を救い、教えを受持し、他に教えることが、仏を供養することになるのであろうか。

簡単に言えば、それを仏が喜んでくださるからということになろうか。法句経166偈の因縁物語に、お釈迦様が四ヶ月後に自ら涅槃に入るであろうと宣言されたとき、周りにいた弟子たちが香を炊いて祈ったりしたが、アッタダッタという弟子だけは一人山に入り一生懸命、お釈迦様が亡くなる前に最高の悟りを得ようと励んだ。お釈迦様は、他の弟子たちに香を焚いて延命を祈っても、それは自分を祈ったことにはならない、アッタダッタのように精進努力することがこそが自分を祈ったことになるのだと言われた。

お釈迦様に手を合わせ、礼拝することよりも、そのお釈迦様の教えを忖度し、その教えに則って生きる、そしてその教えを実現する、またその教えの正しさを示し、良きことを他にも教えていくことが、お釈迦様を尊崇し供養することになるということなのである。お釈迦様の生き様、何を大切にし、どんな生き方をなされたのか、もちろん凡夫である私たちが簡単にまねのできることではない。しかし、その生き方そのものが最高の供養とも言えるのではないか。

だから、たとえばお寺であれば、線香ろうそくをあげて先師尊霊の墓所にお参りをすることも大切だが、同時に、それよりも大切なこととして、やはり仏教をより深く解明し、それを行じ体得していく、その得たものを他にも教え広める、境内を清めお参りの人たちに少しでも気持ちよく何事かを感じていただくなどということがあり、それこそが先師の供養ではないかなどと私は思っている。

供養とは私たちが普通に思っている線香ろうそくの御供えの先のことがあるのだということなのである。数年前のことにはなるが、隣の岡山県のお寺の盆参りのお手伝いをしたとき、ある家で、七十くらいの男性が一人お相手をしてくれた。お経が終わると、小さなお盆にお茶とお菓子を乗せてやってきて、奥さんが交通事故で亡くなったのだと語り始めた。

横断歩道でないところを渡っていたとき、制限時速を遙かにオーバーしたオートバイが撥ねたと。そのオートバイは、二十歳の医学生が運転しており、その学生は大学をやめて勤めて金を稼ぎ、慰謝料を払うと言い出した。しかし、それでは奥さんが浮かばれない。お金をもらうよりも、大学を続けて立派な医者になって、奥さんの命を無駄にしないで、沢山の患者の命を救う医者になってほしい、そうしてもらうことが本当の供養になると一人残された旦那さんは話したという。

しばらく考えていたというその学生は、考えを改め、その後まじめに大学で学びながら、奥さんの命日や盆暮れには必ず仏壇に参ってくれるのだと言われた。確かに、慰謝料をもらっても、亡くなった人のためにはならないだろう。それよりもその死を無駄にせず、だからこそ人の命を救える医者になってもらう、そのことの方がどれほど亡くなった人が浮かばれようか。

亡くなられた人が何をしてほしいのか、残していく家族、親族にどうあってほしいと思われているか。そんなことをその気持ちを忖度して、してあげる。そういう供養こそが本当の供養と言えそうだ。理趣経でいう供養も、結局は、仏さんがしてほしい、後の弟子や信者らにして欲しいという内容なのであろう。ものを御供えする供養の先に私たちのしなくてはいけない供養はいくらでもあるのだと思う。

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