お釈迦さまは誰も近づかないそのアングリマーラの居るところへと歩を進めます。街を歩くときは誰もが10人20人と連れだって歩くのに、たった一人でお釈迦さまは静かに歩いていきます。
そのことを知ったアングリマーラは、誰か知らんが一人の沙門が命知らずにもこちらに来るではないか、後ろから追いついて命を奪ってやろうと考えて追いかけます。ですが、行けども行けども沙門に近づくことができません。
そして思わず、立ち止まって「そこの沙門、止まりたまえ」と声を掛ける、するとお釈迦さまは歩いているのに、「私は止まっている。そなたこそ止まりたまえ」と言われる。その問答にすっかり混乱したアングリマーラは、沙門の言うことには何か意味があるであろうと考えて問い質す。
すると、「私は、いかなる生き物をも害する心が止んでいる。しかるにそなたは生き物を害する心が自制なくとどまっていないのだ」と答える。その言葉にはたと自分の行いを悔い改める心が起こり、お釈迦さまの教えに生きることを誓い、すべての武器を捨てる。
お釈迦さまは彼をアナータピンディカ園に連れて帰り、比丘として遇する。そこへ通報を受けて駆けつけたパセーナディ王が500頭の騎馬隊を率いてやってくる。王は、アングリマーラを捕らえに来ましたと言う。
すると、お釈迦様は、「もしもアングリマーラが髪を剃り、黄衣を着けて出家し、殺生を離れ、戒を守り教えを実践するのを見たならばどうなされるであろうか」と問う。すると王は、「彼を礼拝し座をもって招き衣や食事を与えるでしょう。しかし彼は凶悪なる殺戮者であり、そんなことはあり得ようはずはない」と言う。
そこでお釈迦様は近くに座っていたアングリマーラを指さして、「彼こそがあのアングリマーラである」と言う。パセーナディ王は、驚き、「誰も棒によっても剣によっても取り押さえることのできなかった者を、このように何も用いずに心を鎮め、改心させてしまわれるとはなんと不思議なことであるか」と言い、城に帰る。
そして、ある日アングリマーラが托鉢していると、ある女性が難産で苦しみもがいていた。なんとかしようとお釈迦様にお尋ねする。お釈迦様は、「ご婦人よ、私は生まれて以来故意に生き物の命を奪ったことはない。その事実によってあなたは安らかになりますように」と言いなさいという。
それでは嘘を言うことになるとアングリマーラが言うと、それでは「私は聖なる生まれによって生まれて以来、故意に生き物の命を奪ったことはないその事実によってあなたは安らかになりますように」と言うように諭され、その通り、アングリマーラがその婦人の前で言うと、女性も胎児も安らかになったという。
また、托鉢に出ていると、石を投げられたり、棒で叩かれたりしたこともあった。そんなとき、お釈迦様は、頭が割れ血を流すアングリマーラに、「そなたは耐えなさい。そなたが地獄で数年、数百年、いや数千年にわたって受けねばならない業の果報を現世において受けているのであるから」と。
そして、アングリマーラは一生懸命修行し、悟り、阿羅漢となって解脱したと言われています。
本来なら捕らえられ、罪を認め処刑されねばならなかったところを助けられたのですから、それは本気になって修行に励んだのでしょう。それによって悟りを得られた。石を投げられたり棒で叩かれるといったアングリマーラが受けた報いは当然のことでありました。
このように、どんなに獰猛で凶悪でたくさんの人や生き物を殺した者であっても、お釈迦様は怖れの心も怒りの心も持つことなく、優しい心で接しられ、教え諭されました。こうして更正させ、悟りにまで導いてあげた。
普通の宗教だったら、洞窟にでも幽閉して閉じこめてネズミにでも変えてしまう神通力を現したと言いたいところですが、そうは言わないところこそが仏教なのです。教誡の奇跡こそが最高の奇跡であると仏教では言います。
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そのことを知ったアングリマーラは、誰か知らんが一人の沙門が命知らずにもこちらに来るではないか、後ろから追いついて命を奪ってやろうと考えて追いかけます。ですが、行けども行けども沙門に近づくことができません。
そして思わず、立ち止まって「そこの沙門、止まりたまえ」と声を掛ける、するとお釈迦さまは歩いているのに、「私は止まっている。そなたこそ止まりたまえ」と言われる。その問答にすっかり混乱したアングリマーラは、沙門の言うことには何か意味があるであろうと考えて問い質す。
すると、「私は、いかなる生き物をも害する心が止んでいる。しかるにそなたは生き物を害する心が自制なくとどまっていないのだ」と答える。その言葉にはたと自分の行いを悔い改める心が起こり、お釈迦さまの教えに生きることを誓い、すべての武器を捨てる。
お釈迦さまは彼をアナータピンディカ園に連れて帰り、比丘として遇する。そこへ通報を受けて駆けつけたパセーナディ王が500頭の騎馬隊を率いてやってくる。王は、アングリマーラを捕らえに来ましたと言う。
すると、お釈迦様は、「もしもアングリマーラが髪を剃り、黄衣を着けて出家し、殺生を離れ、戒を守り教えを実践するのを見たならばどうなされるであろうか」と問う。すると王は、「彼を礼拝し座をもって招き衣や食事を与えるでしょう。しかし彼は凶悪なる殺戮者であり、そんなことはあり得ようはずはない」と言う。
そこでお釈迦様は近くに座っていたアングリマーラを指さして、「彼こそがあのアングリマーラである」と言う。パセーナディ王は、驚き、「誰も棒によっても剣によっても取り押さえることのできなかった者を、このように何も用いずに心を鎮め、改心させてしまわれるとはなんと不思議なことであるか」と言い、城に帰る。
そして、ある日アングリマーラが托鉢していると、ある女性が難産で苦しみもがいていた。なんとかしようとお釈迦様にお尋ねする。お釈迦様は、「ご婦人よ、私は生まれて以来故意に生き物の命を奪ったことはない。その事実によってあなたは安らかになりますように」と言いなさいという。
それでは嘘を言うことになるとアングリマーラが言うと、それでは「私は聖なる生まれによって生まれて以来、故意に生き物の命を奪ったことはないその事実によってあなたは安らかになりますように」と言うように諭され、その通り、アングリマーラがその婦人の前で言うと、女性も胎児も安らかになったという。
また、托鉢に出ていると、石を投げられたり、棒で叩かれたりしたこともあった。そんなとき、お釈迦様は、頭が割れ血を流すアングリマーラに、「そなたは耐えなさい。そなたが地獄で数年、数百年、いや数千年にわたって受けねばならない業の果報を現世において受けているのであるから」と。
そして、アングリマーラは一生懸命修行し、悟り、阿羅漢となって解脱したと言われています。
本来なら捕らえられ、罪を認め処刑されねばならなかったところを助けられたのですから、それは本気になって修行に励んだのでしょう。それによって悟りを得られた。石を投げられたり棒で叩かれるといったアングリマーラが受けた報いは当然のことでありました。
このように、どんなに獰猛で凶悪でたくさんの人や生き物を殺した者であっても、お釈迦様は怖れの心も怒りの心も持つことなく、優しい心で接しられ、教え諭されました。こうして更正させ、悟りにまで導いてあげた。
普通の宗教だったら、洞窟にでも幽閉して閉じこめてネズミにでも変えてしまう神通力を現したと言いたいところですが、そうは言わないところこそが仏教なのです。教誡の奇跡こそが最高の奇跡であると仏教では言います。
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