住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

自覚して行うこと

2024年05月21日 17時52分12秒 | 仏教に関する様々なお話
自覚して行うこと--今日の護摩供後の法話に加筆して



今日も沢山のお参りをいただきありがとうございます。いま、3月31日の御開帳のお二人の先生による記念講話の文字起こしをして、寺報に掲載する原稿を作っているところです。

ところで、その保坂先生のお話の中で、沢山の人がお寺に寄り集まり、行事をしてお寺を盛り上げて、次の世代にも繋げていくことは、皆さん自身の仏道修行であり、そのことの意味を自覚して行うことが大切だとの指摘がありました。さらにそれは、安心の徳を積むことであり、悟りへの道であり、幸福への道であるとも。

またその講話の冒頭には、私たちは普通、仏教という言葉を使っているわけですが、この言葉自体が古い言葉ではなく、明治二十年代ころに定着した言葉であって、仏教と言ってしまうと、その時点でキリスト教のような絶対的な存在に対する信仰と教義や儀礼、教団という意味づけになってしまうのとの指摘もありました。それまでは、仏道、仏法という言葉が使われていたのであり、信仰そのものというよりも、より大きなウェートで行為実践、修行を内包するものであり、日々の仏事、仏道修行を意味する内容であったというご指摘もありました。

今日もこうして沢山の皆様がお護摩に集まり小一時間もの間お藥師さんを拝み、心経を唱え真言を唱えて下さいました。このこと自体が信仰のもとになされた、立派なご修行であり、さらに中にはこの日のために沢山の写経まで書いてお持ち下さっています。それは何か願い事のためであったり、また、心の安らぎのために、ありがたい御利益のためにと色々な目的でなされたものと思いますが、なぜ写経をするのか、保坂先生が言われるように、その意味をきちんと自覚して行うということも大切なのではないかと思います。

写経や読経は、やはりそれは善いことであると漠然と思うわけですが、それは読んだり書き写す内容がお経であり、仏の説法であり、それは弟子たちの悟りの修行に役立てるためのものであり、だからこそありがたいものと言えます。読経し書写することでその内容まで十分に理解できずとも、功徳は甚大ですが、やはり教えを理解することも必要でしょう。仏教は学ぶべき教えとも言われていますから。

そして、こうして毎月お護摩にお参り下さり、仏道修行を既にしている皆さんは、そのことの自覚はないのですが、仏教徒と言えるでしょう。仏教徒とは、三宝に帰依する人のことです。仏法僧に帰依したならば、仏という存在を最高の理想として生きることになります。だから礼拝されるのです。理想に近づいていく、そういう行為として修行が位置づけられるわけですから、皆さんがなされている経を唱え、書写する行為もその一端と見做されるのではないかと思います。

そう考えますと、つまりは読経し写経する皆さんは、意識するしないにかかわらず仏道修行をして、功徳を積み、仏教徒の最高の理想に向けて前進するためにそれを行っているということになるのです。最高の理想である悟りを得るまでには何度も生まれ変わり功徳を積んで心を清浄にする必要もあるでしょう。ですが、そうして一歩でも半歩でも前に進んでいくために功徳を積むための仏道を行じているのです。  

そう理解されて、それを自覚されてなされていくと、より安心した毎日、揺るぎない確信のもとに日々を淡々と生きることになります。ご自分のなされていることの意味をもっと深く自覚されて、さらにさらに精進して下されたらありがたいことと存じます。



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