住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
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幅広く仏教について考える

供養について考える

2024年04月29日 12時33分17秒 | 仏教に関する様々なお話
供養について考える (昨日の法事の後の法話に付け足して)



昨年は、四有ということを申しまして、衆生の死の瞬間を死有、それから、中陰とも申しますが、中有という時間を過ごして、次の生存へ生まれる瞬間を生有といい、それから本有という生涯を生きると考えてこの四つの有を繰り返し生まれ変わる、輪廻すると仏教では考えられているという話をしました。今私たちはですから、本有を生きているということになるわけです。昨年お亡くなりになられた故人は次の世、来世に逝かれている先に向けて、前世でお世話になった遺族親族の皆様が功徳を積み、その功徳を手向ける、回向するというのが今日の法事ということになります。

今日は供養とは何かということについて少し考えてみたいと思います。この言葉は中国で訳された言葉で、もとのインドの言葉はプージャーと言いまして、神仏への捧げ物としてのお祀り、お供えやお勤め、礼拝などを意味します。仏教のお寺でも朝のお勤めのことをプージャーと言っていました。インドのお祭りで有名なドゥルガー・プージャーとかカーリー・プージャーというようにお祭り全体を表す言葉として使用される場合もあります。ですから日本でも施餓鬼供養とか、盂蘭盆供養というように使われます。

そしてこのプージャーという言葉にはもう一つ大事な意味があり、尊崇する尊敬するという意味があります。尊いありがたい存在だからお供えをする、礼拝するということになります。インドではヒンドゥー教のお寺などでは拡声器を使ってスピーカーから大きな音で毎朝お勤めを村中に聞かせるという所もあります。ありがたいお経を自ら唱えるだけでなしに多くの人に聞かしめて功徳を分け与え、より大きな功徳とするということなのでしょうか。

お経は仏さまの教えですから、仏様に聞いてもらうものではなく、唱えた人本人が、また聞く人にとっても、それを糧に修行の精進功徳となるものでしょう。お経はどれも悟りという、最高の心の安寧にたずねいるための手ほどきとなるものですから、何度もお唱えし、耳にすることによって、少しの時間であっても、日常の喧噪から離れ、心に安らぎが得られ、僅かでも悟りに向かって前進する功徳あるものです。

ですから、今唱えた仏前勤行次第の最後の廻向文にも「願以此功徳・・皆共成仏道」とあり、勤行次第をお唱えした功徳により、皆ともどもに仏道を成ずることを願うわけです。成仏道とは悟りを得ることですから、それが成仏するということであり、仏になるということですね。それはとても善いこと、最高のところに逝くことだと皆さん漠然とかもしれませんが分かっておられるのです。ですから、通夜葬儀の時に知らず知らずのうちにどうぞ成仏して下さいと焼香するわけですが、それは悟りに向かってこれからも精進前進するべく、より善きところに趣いて下さいと願っていることになります。

そして、塔婆には、「◯◯◯◯大姉第一周忌菩提の為也」と書いてあります。菩提とは、悟りのことですから、一周忌にあたり、塔婆を建立する功徳を故人の悟りのためにふり向ける、廻向するものです。お釈迦様のような菩提、最高の悟りに到達するまでには果てしない時間を要するとされるわけですが、そこに到る過程で、様々な気づきをともないつつ小さな悟りを得て、そうして少しでも近づくだけで、大きな安らぎが得られるものです。

悟りというのは、この自分というような厄介な思いがなくなり、ものの真実因果に通じているので考えることなく、煩悩がないので煩うことがなく、貪りも怒りもなく、何がなくても満ち足りた豊かな心で、何があっても動じることなく、他に対しては優しい慈しみの心で接しられることですが、私たちもそうした心を理想としたい、そういう心になれるように努力したいと思われるならば、それが仏教徒であり、だからこそ皆様はこうして法事に参加されているのではないかと思います。

法事は、集まった人たちがお経を共に唱え、また長いお経を聞いていただき、日常とは違う空間で静思黙想して安らいだ時間を過ごし、来世に旅立っている故人に向けてその功徳を手向ける場であり、また参加された人たち自身が功徳を積む場でもあります。私たちもみないつかは位牌となり家族から手を合わされ成仏を願われる存在になります。また、仏壇は位牌になられたご先祖がみな最上段の仏様のように最高の安らいだ心になれるよう、一生でも早く悟れるようにと菩提を祈る場ではありますが、子孫にも確かな生き方を仏教に学び精進させるために、またときに迷い悩みをご先祖に打ち明け心の声を聞く場として用意された子孫への遺産ともいえるものです。

菩提を得る、成仏する、悟るなどということは自分の人生とは何の関係もないことだと思われるかも知れません。が、こうして法事の場でお勤めをする、つまり供養するというのは、すでにそうした認識のもとで法事における供養が執行されていることにご理解をいただき、単なる故人の冥福を祈る場ではなく、今を生きている私たち子孫も巻き込んだ過去から未来につながる仏道精進の構造のもとにあることをご承知いただけたらありがたく思います。

ところで、少し前から、アメリカやヨーロッパでは仏教の瞑想法をリラクゼーションの手法として活用し、宗教性を排除したマインドフルネスという瞑想法が考案されて多くの人が実践しています。鬱やストレス障害の治療として医学や心理療法の分野でも、また企業研修として自己啓発のため、刑務所の囚人の更生のためなどにも役立てられています。一五〇〇年の伝統ある仏教徒である私たち日本人も、供養の真の意味をくみ取り、故人の安寧を願うものとしてだけでなく、仏教の本質に迫る生き方が求められているのではないかと思います。


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