「夕陽に向って走れ」 1969年 アメリカ
監督 エイブラハム・ポロンスキー
出演 ロバート・レッドフォード キャサリン・ロス
ロバート・ブレイク スーザン・クラーク
バリー・サリヴァン ジョン・ヴァーノン
チャールズ・エイドマン チャールズ・マックグロー
シェリー・ノヴァク ロバート・リプトン ロイド・ガフ
ストーリー
年に一度の祭りに、インディアン保護区に戻ってきたウイリー・ボーイ(ロバート・ブレーク)は、最愛のローラ(キャサリン・ロス)との結婚承諾を、彼女の父親に求めたが、銃で追いはらわれてしまった。
固い決意を秘めていたウイリーは、ローラをつれて駆け落ちしようとした。
そのため、彼はあやまって、止めに入った彼女の父親を射殺してしまい、その時から、ウイリーとローラの逃避行がはじまった。
この事件を知った、保護区監督官で女医のエリザベス(スーザン・クラーク)は、保安官補のクーパー(ロバート・レッドフォード)に、ウイリーの逮捕を依頼した。
遊説中の大統領護衛の任につくためウイルソン保安菅(チャールズ・マッグロー)のところへ出頭する予定だったクーパーは、予定を変更してキャルバート(バリー・サリヴァン)やチャーリー(ロバート・リプトン)らと追跡隊を組織し、ウイリーを追うことにした。
インディアンのウイリーの巧妙な逃亡法にまどわされ、クーパーは追跡を断念して遊説中の大統領警護のために、途中で隊を離れ町ヘ向かう必要があった。
その頃、ローラとともに岩山の砦にたてこもっていたウイリーは、追跡隊に追いつかれてしまっていた。
激しい銃撃戦となり、ウイリーは追跡隊の命を狙わず馬を撃って逃れようとするが、ウイリーの撃った弾が偶然にもキャルバートに命中し重傷を負わせてしまった。
この騒動は、たちまち尾ひれが付いて広まり、大統領を取材中の記者たちは、「政府転覆を狙う先住民の集団」と騒ぎ立てた。
それを知ったクーパーは、再び追跡隊に加わり、ウイリーの後を追った。
ウイリーが潜む山に戻ったクーパーは、途中でローラの死体を見つけた。
自殺かウイリーの仕業かは不明だが、ローラは一発の銃弾で絶命していた。
寸評
ロバート・レッドフォードとキャサリン・ロスが主演している本作の前に、この二人にポール・ニューマンが加わった「明日に向かって撃て」という作品がヒットしていた。
それにあやかったのであろうが、「TELL THEM WILLIE BOY IS HERE」という原題を「夕陽に向って走れ」という邦題にして公開されたので、公開時において少なからず「明日に向かって撃て」の印象を残していた僕は内容に戸惑いを覚えたことを記憶している。
もっともこれがエイブラハム・ポロンスキー作品であることを思えば、僕の認識不足であったことは言うまでもない。
弁護すれば確かにウイリー・ボーイとローラは走り続けているので、この陳腐な邦題もありだったのかも知れない。
描かれている内容はアメリカの恥部とも言える差別と迫害の歴史の一端である。
今では過去の差別を反省して先住民族と称しているが、ここでは旧来のインディアンが使用されている。
過去のインディアン狩りを懐かしむキャルバートの静かな語り口は、一層の嫌悪感を湧きたたせる。
赤狩りによって21年間ハリウッドを追放されていた エイブラハム・ポロンスキーの怒りがウイリー・ボーイに投影された作品で、この作品における真の主役はウイリー・ボーイのロバート・ブレイクだったと思う。
ウイリー・ボーイが白人牧場主の娘ローラが働いている保護区に戻ってくるところから物語は始まる。
僕がこの作品に抱く違和感は、どう見てもウイリー・ボーイとローラがインディアンの恋人にしか見えないことだ。
意図されたものなのかローラのキャサリン・ロスが色黒で白人の娘らしく見えないのだ。
ウイリー・ボーイは正当防衛とも思え、事故とも言える状況でローラの父親を殺してしまう。
殺人であることに違いはなくウイリー・ボーイは追われることになるが、ウイリー・ボーイにしてみれば自分は愛する人と一緒にいたかっただけなのに、インディアンというだけで差別視されて追われることになり、どうすることもできずにただ逃げる中で、彼に待っているのは絶望という感情だけだったのだろう。
足でまといになるのを避ける為だったのだろうがローラは死亡する。
死に至る場面は描かれていないから、ローラの死は自殺によるものか、ウイリー・ボーイによる射殺だったのかは不明のままなのだが、僕はウイリー・ボーイがローラを死に追いやったのだと思う。
ウイリー・ボーイはインディアンとして、自分の妻を他人に渡したくなかったのだろうし、ローラもインディアンの妻として死を受け入れたのだと思う。
ローラがウイリー・ボーイの父親の拳銃で撃たれていること、そしてその拳銃が死体のそばに置かれていたことで、僕はそこにインディアンの誇りを見た。
ロバート・レッドフォードが抑えた演技で複雑な気持ちを上手く表現していたが、キャラクター的に一番興味を引いたのがスーザン・クラークの女医エリザベスだ。
彼女は地位も名誉もあるが満たされず、結局欲しいのは「愛している」という一言なのだが、クーパーからはその言葉がもらえない。
それなのに彼の前に体を投げ出してしまう自分のふがいなさに涙する。
保護監督官として聖人ぶっている彼女の本性をみせて、好かれる役柄ではないが好演だったと思う。
インディアンと保安官の対決をクライマックスにしているアクションものでもあるが、勇壮な西部劇を期待した者は裏切られた思いがする作品だ。
1909年ということは、西部開拓の英雄的な時代は既に過ぎ去り、生き残ったわずかなインディアンは、アメリカ政府の指定した居留地に押し込められ、しかも「シャイアン」のような勇敢な大脱走を試みる力も、もう持ってはいない時代、ということになります。
だから、インディアンと保安官の対決をクライマックスにしているアクションものではあるけれども、血沸き肉躍るといったような勇壮なものではない。
そこにかえって、"西部劇の挽歌"とでもいうか、あるいは、今日のアメリカの姿を現わす西部劇とでもいうような、独特の魅力が生じているような気がします。
インディアンの若者ウイリー(ロバート・ブレーク)が、親の許さぬ恋のもつれから、恋人の父親を殺してしまって、恋人のローラ(キャサリン・ロス)と駆け落ちする。
インディアンの考え方からすれば、これは一種の略奪結婚であるが、保安官のクーパー(ロバート・レッドフォード)は、彼を殺人犯として追わなければならない。
これに、クーパーの恋人でインディアン保護の任にあたっている、女性の人類学者エリザベス(スーザン・クラーク)や、久し振りにインディアン狩りをしているつもりの、地元のボスなどが絡んでくる。
ウイリーは、インディアンが先祖から伝えて来た、逃亡のための様々な知恵を働かせて、追手をまこうとするし、クーパーはまた、親譲りの知恵でこの先を読んでいく。
ローラは、ウイリーを逃がすために死に、クーパーは地元のボスたちの思惑などに悩まされながらもウイリーを追い詰め、そして、奇妙な形をした岩山での一対一の対決になる。
インディアンのウイリーに扮したロバート・ブレークは、「冷血」で、やはりアメリカの社会の秩序の枠の中では、楽しいことなど一つもないみたいな、貧しいチンピラのはみ出し者になりきっていたが、この映画でも、弱いインディアンの切ない意地をよく表現していたと思う。
これをウイリーに心情的にはシンパシーを覚えながらも、仕事として追跡しなければならないというジレンマを抱える、クーパー保安官に扮したロバート・レッドフォードの抑制された静かな演技が、より一層、この映画に深みと切なさを与えているように思う。