末つ森でひとやすみ

映画や音楽、読書メモを中心とした備忘録です。のんびり、マイペースに書いていこうと思います。

PJ版を振り返る:ファラミア 編

2005-09-05 23:59:22 | PJ版:指輪物語

Faramir
“ I think at last we understand one another,
  Frodo Baggins. ”
               ( 映画 LOTR:TTT より )


今回の 「 登場人物別 :PJ版を振り返る 」 は、
ファラミアについてです。

*~*~*~*~*~*~*~*~*

映画を観た原作ファンを呆然とさせ、混乱に陥れた
PJ版での上記のファラミアの台詞ですが、
何度見直しても、どんなに脳内補完につとめても、
大将と旦那が、いったい何を理解しあえたというのか、
私には 全く理解できませんでした (泣笑)

しかも、作品中におけるこの台詞の迷走っぷりが、
PJ版におけるファラミアという人物そのものを象徴しているようで
そこが何ともまた、切なくもあります。。

“ PJ版の大将は、高潔なお人柄をお示しあそばれない ”

そもそも、この点についは、公開前に仕入れたネタバレのお蔭で、
ある程度の心積もりができていました。
そのため、TTT劇場版で初めて “ ブラック・ファラミア ” を見たときも
個人的には、意外と平気だったのです。
原作のファラミアから、いわゆる立派すぎる部分を差し引いたら、
智将ゆえの < 抜け目なさ > をクローズアップする形になるので、
まぁ、こんなものではないかなと。。

それなのに、終盤になっていきなり
「 わかりあえた 」 とか言い出したものだから、
思わず、目が点になってしまったのですよね。
この人は、いったい何なのだろう??? と。

だから、TTT:SEE版には、
その辺りの補完を期待していたんですけどねぇ。
結果としては、 かえって落胆 してしまいました (涙)

追加されたエピソードそのものは、とても好きなんですよ。
ボロミアの亡骸をのせた小舟を見送る場面なんて、
霧のなかの情景が、ものすごく綺麗で印象的ですし、
オスギリアス奪還の回想シーンだって、
むしろ、兄弟の絆を見ることができて嬉しいのです。

しかし、あまりにも、彼の不遇な面ばかりを強調した結果、
ファラミアという人物が、何とも頼りなさげな、
そこはかとなく 凡庸なイメージ になってしまい、
もう、こんなの全然ファラミアじゃないよ!

原作と違って、多少狡猾だろうが、腹黒だろうが、
それはこの際、どうだっていいんです ( かなり言いすぎ ; )
だけど、たとえ父親からは顧みられることがなくても、
ファラミア自身は、秀でた人物であるとわかるように描いてもらわないと、
PJ版TTTでのファラミアの役どころって、私的な理由のためだけに、
ゴラムが旦那に裏切られたと思い込むきっかけを作った人物、
指輪所持者の旅を、より困難なものへと陥れただけの存在と捉えられても、
仕方のない状況に成り下がっているではないですか ~ (>_<)

確かに、時間がないというのはわかりますし、
原作通りの、濃ゆくて重~い執政家のドラマを、
すべて盛り込めなどといった、無茶な要求はできません。
執政家絡みのエピソードに限れば、こうしたファラミアの改変も、
百歩 ( では足りないが ) 譲って、「 あり 」 だったとしましょう。
でも、『 指輪物語 』 全体として考えたときに、
フロドとファラミアの出会いの意味が、
原作とは根本的に違ったままでフォローなしというのは、
非常に問題 だと思うのですが、PJってば、どうなの?

・・ と、ここまでが TTT:SEE鑑賞時点 での、
   PJ版ファラミアに対する、私の 正直な感想 です。
   だから、RotKでの彼には、何の期待もしていませんでした。

で、RotKを観て思ったことは、
原作と比較することを 考えに入れなければ
ファラミアの場面自体は、そう悪くないのかなと。。

いや、実際のところ、RotKのファラミア関連シーンって
役者たちの演技力と、音楽や撮り方の技みたいなもので、
緊張感のある、見応えある作りにはなっているんですよね。
脚本的に足りないところは、 俺たちの力で補ってやるぜ!
みたいな、役者とスタッフのプロとしての意地とでもいうのでしょうか。
そのため、完全に不満を拭い去れたわけではないものの、
それ以降は、役者とスタッフたちに敬意を表し、
結構気合いを入れて 、ファラミアのシーンを見るようになりました。

文句をつけつつも、真剣に観てしまう。。というのは、
実は、PJ版のLOTR全体に言えることでもあります。

モノが創作されるときには、
答えはいつも、「 1+1=2 」 になるわけではなくて、
マイナスになることもあれば、
10、20、・・ と発展していくこともあります。
それは、必ずしも素材の良し悪しばかりが決め手となるのではなく、
作り手たちの熱意や、それをとりまく環境、
世に送り出すタイミングや、受け手側の捉え方により、
どちらにでも転ぶ可能性が十分にあります。

PJ版のLOTRも、結局は同じことなんですよね。
この映画3部作は、脚本的には失速したところを、
原作の底力と、役者の演技力、美術、衣装、音楽の素晴らしさによって、
その欠点を補われていただけ。。という感想をときどき見かけますが、
私自身もそれを完全には否定しません。
だからといって、すなわち、“ =駄作、失敗作 ” ということでもなくて、
原作と、役者や美術・衣装・音楽に、どれほど魅力があったとしても、
映画の核となる脚本がマイナス要因にしか機能しなかったら、
たとえ、文句を言われながらでも、ここまで人気のある作品をつくりだす
エネルギーは持ちえなかったと思うのです。

 ◇ 魅力を感じるからこそ、なおのこと欠点が目につく作品なのか
 ◇ 欠点はあっても、それ以外の魅力で補って余りある作品なのか

このあたりは、もう、受け手側が何を求めるかによるのでしょうね。
私の場合も、PJ版LOTRは鑑賞するタイミングによって、
たった一つの場面にさえ、まったく反対の感想を抱くことがしょっちゅうです。

そうした意味での、この映画からの振りまわされ加減というのは、
多分、主人公フロドの改変に次ぐぐらい、
ファラミアのそれにも、複雑な気持ちを抱かされてしまいます。
それでも、RotKが劇場公開されて、3部作すべてを観てからようやく、
PJ版フロドのことを、良いなぁと思えるようになったのと同様に、
映画のファラミアも、RotKを経て受け入れられるようになっていったわけです。
( ただし、TTTの 「 理解しあえた 」 は相変わらず意味不明ですが ・ 苦笑 )

でも、PJ版でのファラミアって、
やっぱり、サイド・ストーリー担当の脇役なんですよね。
SEE版の追加されたシーンで、誰よりも見所が増えています ; ;
何かと 「 ・・・ 」 な部分の多い、RotK:SEEの追加場面でさえ、
ファラミア関連に限っては、ピピンとの会話シーンをはじめとして、
見るべきものも多く、なかなか充実していましたからね。。
( 背後霊な兄上の演出 & ストーカーな弟の演出 は除く! )

ちなみに、映画の 「 中庭 」 のシーンは、
初見時はあまりのあっけなさに、
“ これで終わりなの !? ” とも思ったのですが、
最近は、まぁ、あんなもんでしょ。。と納得するようになってきました。
絵的に綺麗だし、役者二人の雰囲気作りが良いのです。
そして、何よりもポイントが高いのは、
どこぞの二人のような、思わず目をそらしたくなってしまう、
はしたなさとは無縁 だということです。
やはり、作品の世界観にそった、
ある程度の品位と節度は保っていただかないとね。

ということで、「 エオウィン 編 」 でも書きましたが、
大将、白い姫君とどうぞ、末永くお幸せに ♪


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。