末つ森でひとやすみ

映画や音楽、読書メモを中心とした備忘録です。のんびり、マイペースに書いていこうと思います。

敬愛なるベートーヴェン

2006-12-31 21:08:12 | 映画のはなし
今年も、残すところ数時間になりました。
この一年間、更新が少ないにも関わらず、
拙ブログへとお立ち寄り下さった皆様方には、
大変お世話になりました。 有り難うございます。
どうぞ、良いお年をお迎え下さいませ。

*~*~*~*~*~*~*~*~*

さて、年内最後の更新は、
エド・ハリス、ダイアン・クルーガー共演の映画、
「 敬愛なるベートーヴェン 」 の感想です。

第九の初演を4日後に控えながら、
未だに曲を完成させられないベートーヴェンと、
彼の曲を譜面に清書する、写譜師 ( コピスト ) の女性アンナとの、
音楽を通じての、2人の信頼関係を描いたこの作品は、
冒頭、臨終の床にあるベートーヴェンのもとに駆けつけたアンナが、
彼との出会いを回想する形で、ストーリーが展開していきます。

本編の開始早々、いきなり、サントラ にやられました。。
“ 楽聖 ” を扱っているだけあり、この映画は音楽の使い方がとても評判で、
物語のハイライトとなる第九の演奏シーンをはじめ、
サントラは、既存のメジャー音源からセレクトしたものを被せているのですが、
物語の流れと、挿入される旋律のタイミングが、非常にマッチしていて上手いのです。
( ちなみに、第九のシーンで使用されているのは、
  B・ハイティンク指揮による、コンセルトヘボウ管弦楽団の演奏 です )

ウィーンに向けて疾走する、乗合い馬車のシーンで流れてくるのは、
「 弦楽四重奏のための < 大フーガ > op.133 」 。
不安に苛まれそうになったアンナが、車中から外を見遣り、
ヴァイオリンを弾く羊飼いの少年を目にした途端、
彼女の中を、激しく揺さぶる “ 何か ” が貫いていったことが、
「 大フーガ 」 の音とともに効果的に表現されていて、
アッという間に、映画の中に引き込まれてしまいました。

D・クルーガーの演じた、アンナ・ホルツという女性は実在しません。
確かに、史実でも第九の初演は、2人の指揮者によってタクトが振られたものの、
ベートーヴェンと共に指揮台に立ったのは、ウムラウフという人物であり、
終演後、観客の方にベートーヴェンを向き直らせたのは、アルトの女性歌手でした。

女が作曲家として成功することを許されなかった時代を舞台に、
ベートーヴェンが出会った ・・ という設定で創り出された、
音楽的才能に恵まれたアンナというヒロインの、
この物語で果たした役割とは、いったい何だったのでしょうか。

映画の中で最も盛り上がる場面と言えば、間違いなく、
中盤に据えられた、10数分にわたる第九の初演シーンを挙げることが出来ます。
ベートーヴェンとアンナが、ともに、第九の仕上げに携わった数日間は、
2人が音楽を介し、互いの “ 在り方 ” を認めた日々であり、
その集大成として、彼らの二人三脚による指揮で曲が導かれていく訳です。

この場面、音楽の使い方は勿論、役者の演技がとても素晴らしい!
E・ハリスについては、彼なら入念な役作りをしてくるに違いないと、
ある程度、その上手さを予想することができたものの、
一方の、D・クルーガーまでもが見事だったことには、正直驚かされました。

スマートな指揮ぶりという点からすれば、
人前に立つベートーヴェン役の、E・ハリスの側に分があるものの、
曲との一体感という点では、ダイアンの方が上だったように思います。
彼女の指揮には、その腕の振りに合わせて、自然と音を引き出されてしまうような、
奏者が安心して演奏できる鷹揚さが感じられます。
作品上での、ベートーヴェンとアンナの “ 関係性 ” を踏まえて、
ダイアンがこうした演技をやってのけたのだとしたら、彼女の役者としての意識は凄い。

ベートーヴェンは耳疾の為、外界の音が聞こえません。
しかし、彼の中では、語るべき音楽が溢れ出てくるのです。
それらに形を与え、譜面に起こし、聴衆に伝えんとする一連の流れにおいて、
聴力の不自由さがベートーヴェンにもたらしたであろう、
不安、焦燥、苛立ち、怒り ・・ 等のネガティブな要素と、
こうした苦悩が、彼の人格に及ぼした筈の影響は如何ばかりだったのか。

そうしたことに思いを巡らせながら観る、
第九の演奏シーンは、非常にスリリングでした。

事前に、この映画のレビューを幾つか読んでいたのですが、
必ず触れられていたのが、この場面の出来映えの見事さで、
特に、演奏が進むにつれ、ベートーヴェンとアンナの感情の昂ぶりが、
まるで2人の “ 愛の交歓 ” であるかのように、
官能的に表現されていることへの感想が、実に多く見られました。

多分、そういった感じ方が、主流なのだと思います。
けれど、私がこのシークエンスで最も強く囚われてしまったのは、
曲が終わりに近づいていくことに隠された、その “ 恐さ ” の方でした。

E・ハリス演じる、指揮台の上のベートーヴェンは、
彼がいま、確かに、音の洪水の中に身を浸しているのだということを、
疑いようもなく感じさせるくらいに、全身で “ 歓び ” を表わしていました。
だから、曲が盛り上がり、昂揚すればするほど、最後の一音が鳴り終わった瞬間の、
再び、彼の中から音が掻き消えてしまうことで味わうであろう、
ベートーヴェンという人物の衝撃を考えるのが、とても恐ろしかった。

事実、“ その時 ” に見せたE・ハリスの表情には、
胃をギュッと鷲掴みされるような痛みを感じ、
音が歪み、消え去っていく演出には、目眩すら覚えました。。

そこへ、アンナが、ベートーヴェンの手を取る為に足を踏み出すのです。
彼女に促されるようにして、客席の方へと振り向き、
演奏の成果を自身の目で確かめることが出来たベートーヴェンにとって、
それはまさに、聴覚を失って閉ざされた闇から、光のもとへと橋渡しをしてくれた存在。
アンナが、芸術上のかけがえのないパートナーとなった、決定的な瞬間でした。
( この辺りの展開に、先に触れた指揮をする場面での、
  不思議と安心感をあたえるダイアンの演技が、
  非常な説得力でもって効を奏したことは、確実だと思います )

苦悩の淵から、芸術家の魂を解き放つ ・・ という
アンナの役割が明示されても、しかし、物語は続きます。
あれだけ盛り上がった第九のシークエンスで終わらせることなく、
後半部に繋げていく構成に対し、各種レビューは賛否両論ではあるものの、
この作品のテーマが、後半部にこそあるというのは間違いないでしょう。

先程、私はアンナの役割を表現する際に、
「 橋渡し 」 という言葉を使いましたが、
それには、映画の後半に登場する重要なシーンが、
“ 橋 ” というモチーフに集約されていることも、関係しています。

後半部は、うっそりと、時の流れに沈み込んでいくかのようなトーンでもって、
ほとんどのエピソードが描写されていくのですが、
その中で、唯一、激しい “ 動 ” の印象を与える場面として、
アンナの恋人がコンペに出品した橋のデザイン模型を、
ベートーヴェンが容赦なく叩き潰すシークエンスがあります。

一見、ベートーヴェンの傲慢な振る舞いばかりが、
前面に出ているように感じられるこのシーンには、
実は、とても深い意味が込められているように思えます。

ベートーヴェンが活躍した時代は、音楽史的に見ると、
古典派後期 ~ ロマン派初期にかけての時期にあたります。
だから、ベートーヴェンの音楽が持つ偉大さの一つに、
古典派の音楽理念を追求し、完成させた、徹底的なまでの形式的手法と、
ロマン派の先駆けとも言える、個の内面から生じた、想像的な主題の自由な展開とが、
非常に高い次元で両立しているという点があり、
他の追随を許さないほどの、その均衡のとれた完成度と、先見性によって、
ベートーヴェンの楽曲に対し、「 古典派とロマン派の掛け橋になった 」 という
表現が用いられることもあります。

つまり、映画のコンペ会場のシーンで描かれたのは、
芸術表現において、理論と感情は表裏一体の不可分な要素であること、
秩序を失った主張が、単なる感情への耽溺でしかないのと同様に、
訴えるべき内容を伴わない、形骸化されただけの枠組は芸術ではないという、
音楽家としての彼のスタンスであり、同時にそれは、
形式にとらわれがちな、弟子のアンナに向けての
表現すべきことを見失うな ・・ という、メッセージでもあるのです。

ここには、作曲上の心得としてだけではなく、
もし、本気で音楽家として生きていきたいのであれば、
時代の常識 ( =女に自由がなかった当時の社会の枠組 ) の中に、
自分を無理やり嵌め込み、芸術家としての魂をみすみす放棄するような真似はするな
という、彼女の抱えている葛藤に対する、示唆も含まれているように思います。
( アンナの恋人は、いわゆる普通の好青年で、決して悪人ではないけれど、
  良識という “ 足枷 ” で彼女を縛る、典型的なポジションの人物でもあり、
  この作品の監督が女性であることを感じさせる、捉え方になっていると言えます )

こうしたエピソードが、初演で大成功をおさめた第九ではなく、
ベートーヴェンの晩年の労作 「 大フーガ 」 と絡めて描かれた点こそが、
この作品の、興味深いポイントではないでしょうか。

この 「 大フーガ 」 という曲は、現在でこそ、
ベートーヴェンが達した、精神的な高みを示す “ 至芸 ” の一つとして、
大変な評価を受けているものの、
作曲された当時は、あまりに難解過ぎて、奏者にも聴衆にも不評で、
楽聖の死後も、長年、受け入れられることはありませんでした。
時代を経て、後進の音楽家たちにより、その芸術性が見直されたことで、
彼の代表作として認識されるに至ったのです。

映画においても、あれだけベートーヴェンの音楽を理解していたアンナですら、
当初は、「 大フーガ 」 に内包された深遠さには気づくことなく、
彼女がそれを理解しはじめたのは、臨終のベートーヴェンのもとへと向かう、
あの、乗合い馬車の中でのことでした。。

こうして、映画の終盤まで辿りついた時、
ベートーヴェンの理解者として創り出された架空の人物アンナが、
作品上で果たした役割が何だったのか ・・ が、自ずと明らかになってきます。

ベートーヴェンの楽曲は、後世の音楽家たちに、
多大な影響を与えたと言われています。

そうした歴史的な彼の功績を、
< 一人の人物の姿を借りて、具現化して表現する >
その為に生まれたのが、アンナというキャラクターであり、
この映画のテーマだったのではないでしょうか。

ベートーヴェンと同時代に生きた人物という、ストーリー上の設定においては、
孤独な音楽家の魂に光明を与える為の、“ 橋渡し ”をする役目を担い、
同時に、時代に埋没させることなく、彼の音楽に触れ、理解していくことで、
“ 掛け橋 ” となって後世へと継承していく、実際の音楽家たちの姿を象徴する
二重写しの存在として描かれたのが、アンナ・ホルツという人物像なのだと思います。

“ 師走 ” に “ 第九 ” という組み合わせは、
日本ではすっかりお馴染みの風物詩です。
今年は特に、コンサートのチケットを取っていた訳でもなく、
とりあえず、映画館の音響で味わってみるのも乙かなぁと、
結構、気軽なノリで足を運んだのですが、
アンナの目を通して真摯に語られる、ベートーヴェンの姿を描いたこの作品は、
一年の締め括りとして観るのに相応しい、なかなかの佳作でした。

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  映画 『 敬愛なるベートーヴェン 』

  ◇原題:Copying Beethoven

  ◇関連サイト:公式サイト (日本版)
           IMDb (関連ページ)

  ◇鑑賞日:2006. 12. 29. 映画館にて
Copying Beethoven